現象の間には「膜」がある。

論理的現象の間には膜が存在する。

この膜は処女膜ではない。いや、処女膜かも知れない。

結論。「私たちの意識が棲む論理空間というものは、論(世界を分割するもの)の数だけ膜で仕切られている」ということだ。この膜は当然メタファーであり、意味合いとしては「何となくそこに存在しているけれど、我々の論理活動には何ら影響を及ぼさないもの、という意味である。

 

ここで言う「影響を及ぼさない」は、本当に無意味な存在であることを示すのではない。「影響を及ぼされていた」ということに、膜の見せる幻想から脱してはじめて気づくのだ。そのころにはすでに膜の影響を受けていないわけだから、(トートロジーか)我々の意識に「影響を及ぼしている」と認識することはできない。

 

さて、膜の効果について論じていきたい。膜とは壁のようなものであって、壁ではない。我々は壁の前で立ち止まるように、膜の前でも立ち止まる。そしてそれにぶつかってみようという動機がない限り、膜の向こうに世界があることに気付かないのである。この意味で、膜の輪郭は我々が無意識に信じている常識と似ている。

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膜がある場所には言葉の境界がある。言葉は、違うものを指すためのものである。完全に同じものであるなら、その言葉は必要ない。フランスには馬車を表す言葉がいくつもあるそうだが、それでも夜会用の馬車、謁見用の馬車、二人乗りの馬車......と違いは存在するのである。それはフランスが馬車の文化だからである。日本語は馬車のバリエーションは貧相だが、敬語が発達していて、謙譲語、尊敬語、丁寧語など、動詞の「敬体変化」とでもいうべき派生が存在している。

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膜は破るためにある。

処女膜ではない。

膜というのは、破ることで世界を広く認識できるようになる。膜を破るのは教育によって基本的に習得されうるであろう技能である。システマティックな破り方として私が提案するのは、一つ正しいと思われることを言って、「~は間違っている。なぜなら~」という風に無理やり間違っている理由を探すものである。

例えば、「銃は規制されるべき」というのは間違っている。「なぜなら、銃を持った悪人に対して対処できなくなるからである」といった具合に。(私の膜は既に破れているし、この道はもう何度も通ったので膜はカスほども残っていない。そのため、このロジックに出会った感動はもう思い出せない。)

当然、この間違っている理由に対して同様の方法を行使してもよい。

「~の理屈は間違っている。なぜなら、警察が銃を持てばよいからだ。」

「~の理屈は間違っている。なぜなら、市民が銃を持たなければ警察が腐敗するからだ。」

**小休止

議論領域に注目してほしい。最初の悪人with銃は、「銃を持った悪人」が議論領域だ。

次の「銃を持った市民」の論理は、「銃を持った悪人に襲われ」かつ、「銃を持った市民」が対象で、反対論理として、銃を持った市民がある確率で悪事を働くとすると、

悪人に襲われる確率 <市民が悪事を働く の場合銃を規制すべきだし、

悪人に襲われる確率 >市民が悪事を働く の場合銃を規制すべきでない。

 

しかし、これで終わりではない。「悪人に襲われる」というのは、「悪人がいる」かつ「襲われる」という意味であり、悪人の数は銃を持つ市民と比べるべくもない。そのため、悪人に襲われるよりも、銃を持った市民に襲われるほうがより頻繁に起きるだろうということだ。(インフルエンザ検査薬で、陽性者よりも擬陽性のほうが多くなる理屈と似ている。)

**小休止終わり

**小休止2

思考の詳細は幾通りもあるが、結論は2通りしかない。そうか、そうでないかだ。これは思考を思考へ展開する問いでは成立しないが、思考を行動へ展開する問いではどちらかが答えとなる。

なぜなら、行動には「する」か「しない」かの2通りしかないからだ。質、量ともにヴァリアブルな思考を行動の有無というデジタルに落とし込む際に「結論」という両方の性質を兼ねた形態をとる必要があるのである。

国語の問題でいえば、記述式か、「ア・イ・ウ・エから選びなさい」、かの違いに似ている。

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膜を破る弊害

膜を破り慣れると、自力でしか生きられなくなる。常識を疑うことが、膜を破ることとほぼ同義だと述べたが、これを行いすぎると常識を失ってしまい、人間の生産性は大きく下がってしまう。人間は自分の生活をほとんど惰性で生きているのである。それは常識や習慣であるが、それを失うと極端な話、「今日は何を食べるか」という問いに対して、「私は長生きしたい。そのため野菜と肉をバランスよく食べる食事が望ましい」と考えたところで「なぜ私は長生きしたいのか」と考え始める、さながら狂人のようになってしまう。膜を破っても、そこに幕があったことを忘れてはいけないのだ。

つまり、ここからいえることは

1破る膜は少ないほうが望ましい。 

2破った幕は回復しない(忘れれば或いは。破れやすくはなる。)

ということである。

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編集において付け加えるが、膜はその者が破らなかったことによって強化されてゆく。記号が反復によって自己の性質をより確固たるものにしてゆくように、「膜より先の空間アクセスへの有無」が膜(=空間の終端)の存在によって象られて強固になってゆく。そして膜によって区切られた空間はその者の自己同一性となるのである。

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霊感

しかし、「クリティカルな現実認識のために、必要な膜だけ破りたい。」という人もいるだろう。その答えとして、「霊感を鍛える」がある。霊感とはいうなれば「精神の領域にない情報と矛盾しない結論を出す能力」である。それは例えば、つる植物が支柱もないのに真上に伸びている様子である。つる植物の茎は柔らかく、一般的な感覚では重力に負けて倒れてしまうはずである。しかし、必ず倒れるというわけでもない。天文学的な確率で、重心が茎の真ん中に厳密に位置していれば、倒れない。

霊感とは無窮の真実属性であり、この世界における真理との間に発生する静摩擦力である。この天文学的確率に再現性を求める莫迦らしい行為を真剣に追及することが、霊感を鍛えることだし、私はそうしている。