トロッコ問題について

ロッコ問題

あるところに壊れて暴走したトロッコがある。そのトロッコの行き先には5人の作業員がおり、このままではひき殺されてしまう。そのトロッコにはもう一つの行き先がある。その線路の先には1人の作業員がおり、トロッコの路線を切り替えて5人を救った場合、彼は死んでしまう。あなたには選択権がある。どうするべきか?

 

この問題の不幸な点は、あまりにも有名になりすぎてしまったため、知的議論の訓練を受けていない者にまで発言の機会を与えてしまったことだ。以下に例を挙げる。

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いかにも2チャンネルのように無礼で品のない言説であろう。こんな小さいゲームのようなもので人を見下すふるまいをして偉ぶるのは小心者の行いである。それはさておき。

 

文系の議論というのは、理系の議論とは違って、底なしの批判ではありえない。ある論を語る上で認めるべきラインというものが存在するのだ。功利主義であれば、一人が感じたと認められる幸福の総量はある程度平等であり、クスリや生来の特性で幸福度を増幅したとしても他人とある程度平等に扱われる、などだ。(本業の方、間違っていたらすみません。)

 

ロッコ問題は面白いことに、我々を無意識に議論へ駆り立てるミームを含んでいる。その無意識を明らかにしたうえで、この問題を「解剖」して差し上げよう。

この問題を然るべき軸で脱構築する。

この問題は、5人の人が危機に瀕しており、それが達成されなかったときに1人の人が危機に瀕する。では逆にしてみたらどうだろうか。

 

 

「暴走したトロッコの先には1人の作業員がおり、その前で分岐する線路上には5人の作業員がいる。あなたは切り替えるか?」と。

 

これに関する問いは存在しえない。問うまでもないからだ。

「線路の先には一人の作業員がおり、彼を助けるために線路を切り替えたら、線路のっ先には5人の作業員がいた。」という言い切りの形で、しかも悪い結果でしか存在しない。彼を助けなかったならば、分岐の先の5人に言及することはなくなるからだ。必要以上の要件は付け加えない、オッカムの剃刀である。

まるで聖書に出てくる寓意話のようだろう。

 

コ 閑話休題ーついでに

ある人は、「もしその1人が自分の大切な人であれば、とるべき行動は変わる(切り替えなくなる)」と主張する。この主張はこの問題よりも低次に位置するため、この問題のシステムによって自動的に反証される。

「一人が私の大切な人である」確率は、「五人のうち誰かが私の大切な人である」確率よりも低い。1人に限った話でいえば、正確に5倍の差がある。行動を変えるための理由にはならない、その人が愚かでなければ。

脱構築の結果

 これはただの静摩擦力の問題だ。「切り替えるべき」という行動させるFに対して、「殺人は悪である」というブレーキがどれほど『静摩擦力』を発揮できるかということを、行動「するか、しないか」というYes or No を媒介して問うているのである。

 であるからして、回答の精度を高めたり真意を補足するために、より鮮やかでクリエイティブさの発揮された回答をしてもよい。しかし、「トロッコを脱線させる」「作業員に危険を知らせる」など前提を共有しないものは本当にナンセンスで破壊的、台無しである。

 あるいは、道端に落ちている小銭を拾う問題と相似であるともいえる。あなたが歩いていると、1円玉が落ちていた。拾うか?では100円玉、1000円、1万円ではどうか?この金額を平均し、どこまでブレーキが効くかという統計学上の定数を求める話でしかないのである。先の問題に照らせば、

 

[変数A]人が線路上に[変数B]人が分岐した線路上にいる。ただし変数A>変数B

 という2変数の表における[Yes/全体]の統計の結果だけが真に役立つ値なのであり、トロッコ問題はただ人々の摩擦係数を説明したものにすぎないのである。

この問題のキモ

 この問題のキモは、我々がサンデル教授の前で話す内容は、懺悔室で話す内容と同じだということだ。そこには多分に自己正当化が含まれている。我々が線路を切り替えなかった場合、我々の道徳性を必死に説明するし、線路を切り替えた場合もまた自己の正しさを必死に立証しようとする。/というそしりを免れない。

 アカウンタビリティという言葉がある。これは説明責任という意味で翻訳される以上に、己の行動の正しさ(を以て罰を逃れる)を伝えるという精神性がある文脈において使われる言葉だ。この問題においても、論理的な説明と、巧妙に隠された自己弁護(観測者もこの呪縛から逃れられないため)が似た性質のものであるがゆえに、この二者は分離不可能なのだ。それゆえ、この問題はここまでしか深められないのである。いわば「われ思う、ゆえにわれあり」である。

 もし、論理的に予想される両者の違いを説明できる問題(「非合理性」と「それを合理化する力」の鬼ごっこである)が存在したとして、その結果この二者が分離されたら、それはこのトロッコ問題よりも一段階高次元の問題といえる。

ついでに

「陰関数」(比喩)は現象を記述するのに便利な概念である。また、陽関数(比喩)よりも高次元な気がする。一つの関数を別の関数に投射する陽関数はどうしても「小から大」の方向に「劣から優」の価値が言外に対応付けられてしまう。主観が混入してしまうのである。陰関数のように、二つの関数の関係性を規定しただけのものは状態として存在するだけであり、主観によって一通りに決定する必要が無いため、よりピュアな「状態」の記述に向いているのである。

ついでにー了

文を締めくくるが、ここまで読んだ諸氏に持たせる手土産として、トロッコ問題の結論を書いておく。これは状態と行動の陰関数である。曰く「正当化したいなら何もしない(線路を切りかえないを隠蔽)べきだし、人を救いたいのなら線路を切り替えるべきである。」