日本式の美

陶芸

私は所属している組織柄、陶芸に触れることが多い。日本の陶芸は非常に不思議で、世界的に見ても異端の存在である。

日本の陶芸

日本の陶芸において、茶道の影響は全てであるといっても差し支えないほど大きい。作風だけではなく、審美においてもそうである。茶道人に好まれるような(数寄風の)ものが歴史的に有力者たちを惹きつけ、舞台裏での駆け引きなどに用いられてきたのだ。その美を代表したものが、古伊賀の名作「破れ袋」だろう。この緑が逆説的に赤を暗示し、人肌の柔さを含んだ亀裂に緊張感を与えている。

破れ袋 織部 に対する画像結果
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 日本の陶芸は、その審美が欧州白人の価値観に打ち勝った一例であると思う。西洋の美意識は基本的に「聖」である。英国のスリップウェアなど例外はあるが、マイセンに代表される硬質磁器は植物の絵や金・銀をあしらったもので、聖典にある宴の祭器のように、優雅で女性的なものが多くみられる。

 そのような欧州といち早く交流があった明治期の日本は僥倖にも、陶芸の文化においてアジアでもとりわけ醗酵の進んだ地域であった。バーナード・リーチなどの西洋人に影響を与え、上のような価値観に市民権を与えたもうたことは、のちの「禅」などに統合され、日本文化全体に対する理解の先駆けになったのではないか。

日本の美

行く先のない美

 結論から言ってしまうと、日本の美は袋小路の美である。他には「羽化」と言い換えてもよいだろう。昆虫は脱皮を繰り返して順当に成長してゆくが、ひとたび羽化してしまえばそれ以上成長することはかなわず、その代わりに羽を得るのである。日本の陶芸は、茶碗を丸く作るという陶人の悲願を(ほどほどのところで)放棄し、そこから培った技術や精神に従って原初に立ち返り「再構築」したものだと考える。

 この意識は茶の湯が大成した鎌倉から安土桃山にかけてのことと思われるかもしれない。しかし私は、実は平安時代にこそ、この精神は生まれたと考える。平安時代は貴族が文化の担い手であった。貴族が詠むものは和歌であり、そこには折り返しの精神が見事に体現されている。

 

「つくばねの 峰よりおつる みなの川 こひぞつもりて 淵となりける」

 

 これは陽成院の(私が悲しいほどに好きな天皇だが)詠んだもので、恋の心情をうたっているのに驚くほどネガティブである。西洋の讃美歌などとは違って、日本の恋は「余ったパワーが毒となっている(病んでいる)」様子をアピールするものが多い。大昔はメンヘラが様式であったのだ。これはなんと愛らしいことではないか。

危機感

私はこのブログを書くにあたって、危機感を募らせている。日本の美には将来がないのだ。日本の美は、発酵の美である。発酵というものは、賞味期限を過ぎたら「腐敗」となってしまう。西洋の美は積み重ねる性質のもので、歴史的に過去のものは腐敗してゆくが、新しいものはその歴史を継ぐ正統な後継者として「ストーリー」が出来上がっている。一方で、日本の美は過去のものの焼き直しであり、積み重ねてゆく素地が無いのだ。糠床の上でジェンガをするようなものだし、ぬか床が腐ったらオシマイだ。

他に

 盆栽なども日本的審美眼の賜である。中国の清朝では、(このころ中国の人口が初めて億を超えたと推測される)女子に纏足を施して正常なものを意図的にゆがめる文化が流行したが、我々はずいぶん前から樹木に同じようなことを施してきた。纏足とは足を意図的に折り曲げた状態で固定し、小さい靴に押し込めて形を矯正するものであった。これは樹木を小さい鉢に押し込め、枝を念入りに落として成長を遅らせるのと何の違いがあろうか。そして彼らの足・根が行き場を失った絶望により醸す美というのは、8つの島に閉じ込められた我々の心と大きく違うだろうか。

ちなみに

 盆栽といえば、格付けチェックでの見分けである。盆栽の目利きが始まって2年だが、私はリアルタイムで見て2回とも当たったので、私なりの攻略法を伝授したい。その方法とは、「名前とそのものが対応するか」を判断することである。

 例えば、下の画像は題が「華厳」であることが伝えられ、どちらがそうであるかを見分けるものだ。

格付け 盆栽 に対する画像結果

 「華厳」とは読んで字のごとく「華やかで厳か」という意味だ。華厳といえば、華厳の滝が有名であるが、あれは滝が華厳だから名付けられたのであって、華厳の滝から盆栽が名付けられたわけではない。すると、霊峰のような高貴さを漂わせるAが正解だと分かるだろう。Bの方は強いて言うなら「華厳の滝」だ。厳かさが足りない。

 もう一つのほうが以下の問題だ。

格付け 盆栽 に対する画像結果 

この時の題は「序の舞」であった。これは、能における「序・破・急」と関係が深いだろうと予想できる。(歌舞伎以前の伝統芸能には広くみられるらしい)であれば、どちらがより「能っぽい」かが判断の決め手となろう。能は非常に日本的な精神を内包している。それは「金よりも銀」「磁器よりも陶器」といった具合であることを鑑みれば、いかにも「踊り子」といった風の右側でないことがわかる。左側の磨き上げられた樹皮に浮かぶ人魂のような果実がいかにも幽玄な風であり、能の神秘的な雰囲気によく合致していると思う。(葉が一枚もないのだが、あの木は大丈夫なのだろうか?)新宿の伊勢丹で右の(=和菓子)ものを見たが、やはり「力の漲る感じ」は感じられなかった。

さいごに

 失われた20年というのは西洋庭園の木が盆栽になるに十分な時間であった。我々は皆、斜陽の精神に震える鑑賞者である。あるものを極めた先に到達する点から少し「折り返して」しまうことに美を求める性質がイケナイものだと分かっていても、浸ってしまう。