アイディア集

アイディアについてまとめる。今後ブログを書く際に題材となりうるものである。

外山滋比古の「思考の整理学」を読んだ。そこでは、記憶したものを「醗酵させる」=更に価値を高める、ためには一度忘れる必要があると言っていた。しかし、どんぐりを埋めたリスのように永久に見つからなくては困る。そこで、どこかに記録を取っておくのである。これは私なりの実践である。いつか、誰かの養分になることを願って。

論の正と負の性質

 推論とは、結論を導くために行われるものである。例えば、「私は人である。」「人はタマネギを食べられる」という2つの命題があった時に、「私はタマネギを食べられる」(真である)という結論を導くものである。この結論は「人」「タマネギ」「食べられる」を適当に変更して、「猫はタマネギを食べられない」「チンパンジーヒガンバナを食べられない」といった風に変更可能である。これらの結論は最初に挙げたものとは独立したものであるため、片方の真偽がもう片方の真偽に影響を及ぼさない。

 先ほどは真の命題についてのみ取り上げたが、偽の命題に関しては語尾に「ない」をつければよいため、すべてを真の命題として取り扱う。

 推論とは結論を出すために使用されるものであるが、使用する人間によっては真逆の結論を導き出すことがある。アメリカの銃規制問題の主張がわかりやすい。

 銃規制賛成派は、銃の規制が犯罪の減少につながると言う一方で、規制の反対派は、銃の規制は市民の抵抗を不可能にし、犯罪の被害者を増やすことになると主張している。

 この主張を見ればわかりやすいのだが、前者は推論が2節(銃の規制・犯罪減少)であるのに対し、後者は主張が三節(銃の規制・抵抗不可・犯罪増加)なのである。推論の数を数えれば、前者は1で後者は2である。

 もう少し詳しくみてみる。論理展開には、「だから」と「しかし」がある。しかし、推論が結論を出すための道具である以上、結論を180度反転させる「しかし」の論理は何よりも意識されるべきではないだろうか。

 そこで、私は「しかし」で区切られる論理を一つとして数える考え方を提案したい。銃規制論の賛成派の論理は「だから」の一つだけなので0単位、反対派は「しかし」が一つだけだから1単位、という風に。すると、偶奇性が見えてくる。

論の輪との関係

 私は、以前の投稿で「言葉が張り巡らすネットワークの中に論理が解釈される」といった。先の偶奇性の論と併せれば、偶→奇→......→偶(A.B....A)でなければならないはずである。ただし注意してもらいたいのは、これは「しかし」を単位としてみた論理であり、一般のものとは違うということだ。

 偶から始まり偶で終わるものは議論の必要はない。結論が同じなのだから。しかし、偶で始まり、奇で終わるものは、水と油のように本来交わらないものである。偶と偶は同質性ゆえにその正しさが保証されているけれども、偶と奇はそれが完全な論理の切れ目でなければ正しいとは言えないのである。そのため、ジョイントが設けられるのである。AならばBしかしCならばDしかしEならばFしかしGという論理を考える。

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正と負とジョイント

ある結論を論じるにあたってAは正であるのに対し、結論は負である。ジョイントの役割は、否定の結論が、はじめの肯定とうまくなじむように説をつなぐことである。すなわち、「それが正しいなら、それが正しい」 というトートロジーの仮定である。これを認識することは難しいが存在はすると思う。これが存在しなければ、すべての否定形は背理法となり、尻切れトンボのように存在を失って立ちどころに消滅してしまう。フェミニストなど近年の社会学者は現代社会を否定することにたけている。否定はこのジョイントのおかげで、ある程度の正しさは担保されている。だからこそ、批判的(critical)に読むことで論それ自体の正しさを検証しなければならないのである。

 私が彼らに言いたいことは、「その説はある場面では正しいかもしれない。しかし、それが正しくない場合もある。」だ。

あくまでもアイディアなので、深堀りはしないが。

脳と冷却

 脳は人間の思考器官である。しかし、それはコンピューターとは違った挙動から成り立っている。人間の脳はシナプスがその結合を自在に変えて成立している。これはケイ素結晶の表面に刻印された魔法陣といくばくかの詠唱通りにしか動かないパソコンとは違う。(なろう症候群)

 人間の脳はどのようにして問題を認識し、結論を出すのだろうか。そして、問題が与えられたときに、時間の経過によって結論を導くことが可能なのはなぜだろうか。

 私の仮説はこうである。人間の脳は問題に合わせて「状態」を作る。この「状態」は完全ではなく「熱」を持っている。そして、この熱が「冷める」ことこそ、答えに向かってアプローチすることであり、冷めきって「安定状態」になった時、それは答えを探り当てたといえるのである。

 例えば、乱雑に打ったピンsがあったとする。これらのピンから適当に何組かを選んでゴムをかけるとする。これが「問題」である。それから、このピンを抜いたり打ち直したりしてピン間のゴムの長さを一定にする。この「平衡のとれた」状態が冷めた状態であると考える。これは脳の中では脳波やらなんやらが打ち消しあったりしているのではないだろうか。

 問題に対して間違った答えを用意するとき、我々は問題の前提条件を間違えているか、安定状態を錯覚しているかだ。例えば、問題の条件が本来これだけのピンを包含していなければならないのに、これだけしか考慮していなかった、だとか、冷却が進まずにピンの居場所がない、だとか、、、

 つまり、頭の良い人や大数学者は「問題認識機能」「冷却機能」が優れているのだ。これを補強するいくつかの知見を上げる。

問題を「ねかせる」

 問題を「ねかせる」と、自然と解けていることがあるそうだ。外山滋比古の本であって、学術論文ではないのはあしからず。これは、問題解決が「冷却」であって「加熱/エネルギーチャージの類」によらないことの根拠である。問題解決がもし加熱式に為されるのであれば、思考を中断することは結論への妨げであるはずだ。

 問題の段階で既に意識に作用が起こっている理由はこうである。。問題とは、それ自身は我々の中には存在せず、「こうすれば解けるんじゃないか」という予想の形でのみ存在する。プログラムでいう宣言のように、いくつかの変数をその問題に関連付けることで問題の輪郭を浮かび上がらせるのである。そして、一度輪郭が出来上がってしまうと、それに手出しすることはなく専ら内部で弄繰り回すのである。だから、もし輪郭の外に必要なピースが取り残されてしまった場合、その問題は解けないのである。時間を置くと問題が解けるようになるもう一つの理由は、問題に関連付けられた変数リストをリセットし、もう一度問題を解釈しなおす機会があるからだろう。

 イワシの大軍を想像してほしい。外のイワシは内部を包むようにして泳ぎ回り、群れの輪郭を形成している。中のイワシが外に出ようとしても、外のイワシが壁になって出られない。では、イワシの群れを解散させてみる。そうすれば壁はなくなり、中のイワシは自由に外にアクセスできるのである。

優秀なものが滅ぶメカニズム

 上位20%しか生きられない集団では、それらの中だけで平均化が行われる。一方で、例えば上位75%が生きられる集団では、より粗い平均化が行われることになる。一部の知的ぶった人間は進化論を引き合いに出して、「どの形質が優れているかわからないのだから、すべては残されるべきだ」といっているが、このような脳の形質こそ篩にかけられるべきものだ。進化とは究極の結果論である。結果がすべてであり、そこから予定調和的に導かれた説はなんら論理的な固さを持たない。だから、人間の分際では、それを意識すれども語ろうとするのは傲慢である。

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珍しさと平均化

 人間は交配することで次世代を残す。交配すると、その形質はおよそ平均される。淘汰圧の低下は、平均化する母集団を冗長にし、かえって種族洗練の妨げとなる。ユダヤ人は古来より迫害されてきた。しかし、一般的な認識では彼らはとても頭が良いとされている。これは、昔から無能を徹底的に淘汰してきたことで進化の指向性が高まった結果だといえる。ナチスによる大淘汰は皮肉にもユダヤ人の質の向上に貢献してしまった。

  優れたものは、滅ぶ。ここで三つの滅びのメカニズムを示したい。ここで言う優秀とは遺伝性のある能力の高さを指すのであって、私の精神から見ても失敗のない完全な存在ではない。現に私は彼らの失敗を指摘するのだから。

  優秀な人間はその能力を世に示す。すると、優秀でないものが増殖し、優秀さを希釈してしまう。こうして優秀さは滅ぶ。最初に示した通りだ。

 優れた物品や、それを製作する能力なども失われる。はじめは、純粋に優れた性能で勝負する。そうすることで性能の良いものが発生する。一方で、市場も成熟する。インフラとして人々の生活に取り入れられる。すると性能の良さではなく、コストパフォーマンスによって製品が評価されるようになる。コストパフォーマンスの高い製品とは必然的に優れた製品からいくらかの美点を欠くものだ。そうして、消費基盤を失った優れたものは死んでしまうのである。

 ほかに、大量の不純物を抱え込むことで滅ぶことがあり得る。フランスなどはそうだ。奴隷を社会に入れ、はじめはこき使っていた。しかし、戦争などで奴隷の働きを所与のものとして総力戦を行ったことで、奴隷を市民に昇格させなければならなくなったのだ。奴隷を認めた場合は使用者による競争が発生し、いかに労働力を確保するかという争いが発生し、結果として優れたものを排除するゲームになってしまう。

 ゲームの戦略は場合分けと正・負の対応付けによるもの(ある場合はこうする、それ以外の場合はこうする)で表され、それは先に説明した論理の偶奇性と重なる部分である。そして、「しかし」で連なる単位の節は必ず戦略が切り替わる点に存在するのである。

 

以上

 私の思索は旅に出ます。目的地はありません。安住の地にたどり着けないかもしれない。もう戻ってこないかもしれない。でも、それは怖いことではありません。それでも未来の自分がどうなのか、を予想して現在の行動を設計するのは、たくさんの霊感を要する。 

レポートの書き方ーSB

厄介な課題が出た。

「あなたの興味の持った現象について、授業で扱ったモデルを利用して説明しなさい。」

 この種の問題は非常に厄介だ。自分で問いを設定し、自分で解決する。シャドーボクシングといってもよい。タイトルのSBとはこれのことである。厄介すぎて、こんな文章を書き始める始末である。

 これは、「圧」である。レポートを各方面に係る心理的圧力に対して、レポートの壁があまりにも堅牢である。そのためレポートという事象を支えている壁が破損し、私の意識があらぬ方向に漏洩している状態なのである。

 ここ数日、私は寺のバイトをこなして疲労している。心なしか頭の働きも鈍い。(社会に出たら1ッ週間で過労死する気がする)それに、おそらく私の体内では暴露したコロナウィルスを必死に処理している最中であるため、いつもより「余裕」がない。何となくわかるのだが、疲れやすくなって集中力も散漫だ。この状態で紡がれる稚拙な文章を見られる不幸を許していただきたい。

何が厄介か

このような問題の何が厄介なのであろうか。2つある。一つは、我々の思考形態との不和である。

思考形態とSB

 人間の思考は、無矛盾な体系である。私はこれを以前、クモの巣を用いて説明したのであるが、つまり安定な状態で存在しているのである。一方で、問いを答えるというのは、不安定な状態から安定な状態への変化といえる。

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問から答えへ

 問いという不完全な状態は、回答(=補強)の余地がありえる形態であり、一方で結論、トートロジー化した答えは、安定である。そして、人間の意識内には問いのみが存在しており、安定状態の結論は無意識化においておかれるのである。否、無意識化においても残り続けるといった方が正確か。問いの状態で無意識に放り込まれると、忘却されてしまうし、安定状態のものを意識内においても邪魔なだけで何か変化を及ぼすこともできないので。

 問いに答えるというのは、意識下にある問いを無意識によって解釈する作業である。これは輪を作る作業と言い換えてもよい。問いに答えることで、その問いと答えの間の道筋は安定化する。問いに対してさらに優れた回答が用意された場合、輪はそちらの方で上書きされ、古いものがどうであったか忘れてしまうのである。塾講師の指導などで、「間違った部分を消さずに残しておく」というのは、古いものと新しいものを残すことで、さらに良いものが見えてくるからである。

 さて、本題に入るが、我々が日常で問題に直面したとき、それを自らの論理で処理し、無意識領域に沈めてしまう。また、問いというのは輪を形成する前段階である。日常で感じた疑問を自分で解決するというのは、輪を形成する動的な精神活動であり、これは決して常にそうあるわけではないのだ。であるから、その現象が起きたときに疑問と自分の回答をノートにメモしておかなければその動きというのは忘れられてしまうのであり、任意のタイミングで思い出せと言われてできるものではないのだ。

 このレポートの課題にシステマティックに答えようとするならば、「自分の中にある任意の論理の集まりを切り取り、それを分解して質問を取り出し、その質問に答える」という手法しかないが、私はこれをやったことはないし、これが可能だとも思っていない。そもそも無意識下の話である上に、一つ一つの輪はそれ以外の輪による安定化の作用を強く受けており、それを切り離すならそうした側から論理は雲散霧消してしまうからである。また、このような精神構造をしている人間の論理は極度に単純化されており、レポートに書きうるほどの制約の多い質問を単離することは困難だ。

思考順序とSB

 人間の思考には順序がある。例えば、Aで始まる英単語といえばApple, Amazon等々いくらでも挙げられるが、5文字目がaの英単語と聞かれたらどう答えるか。システマティックな考えは不可能であり、適当に英単語を考えて、それぞれが条件に合致しているかを確かめる以外に方法はない。(人間の脳のみを使うこと)

 任意の問に対して、答えの条件を指定される今回のレポートはそれである。問いより先に答えを知ることはできないし、その答えが要求に合致するかを答えを知る前に判断することも不可能なのである。これはまるでじゃんけんのグー・チョキ・パーではないか。問いがわからないから答えがわからない。答えがわからないから答えの条件を満たすかがわからない。答えの条件を満たすかがわからないから問いが決められない。

ではどうするのか

 書けないからといって書かなくてよいという泣き言が通る世界ではもちろんない。どんなに書くべきものがなくとも、○門が裂けてもひりださなければならない。その時に行うべき対処法をここで整理しようと思う。これは私の明日明後日(2つのレポートの締め切りが重なる日)に向けた行動指針の確認でもある。どうか健闘を祈ってほしい。

すべきこと1

 レポートを書く際にまずすべきことは、そのテーマに関して習熟することである。習熟などありえない話!中国人を登場させるな!となるかもしれない。しかし、書くべき内容について深く理解していればしているほど、問題を見つけやすくなるのもまた事実である。我々は知っていることを呼び水にして知らないことを知るようになる。知識を増やして、網を広く張って待てばより多くの羽虫が引っかかるようになるというのは言うまでもない話だろう。

すべきこと2

多くの問いに触れることが重要である。文系の問題の場合、新聞や雑誌など様々なものを読み、何が起こったかだけでも把握しておくべきだろう。精読する必要はない。問題を発見することだけが目的であるので、あまりライターの意見に左右されすぎると、自分の解釈を交える隙間がなくなってしまう。そうなれば、自分の世界観と現実認識の間に齟齬が生じてしまうことは必至である。

 教員が特にテーマを決めずにレポート課題を課すのは、完全に怠慢である。誰が好き好んで取っていると思っているのか。意欲・関心・態度を評価したいなら小中学生でも教えていればよいのだ。さて、これらを書くことで私の脳もすっきりしてきた。バイト中はあまり頭を使わずに虫のように動いていた。知能が大きく下がったような感じがしたので、環境の要因とはつくづく恐ろしいものだと思った。そして一つ、賢いというのは、必ずしも優れていることではない。賢すぎると、愚者の行動に頼ることができなくなってしまう。愚者がどのように考え、行動するかを推察することはできても、それに自分の命運を預けることなどできないのだ。崩れそうな足場に体重をかけられないのと同じように。それをするのは詐欺師である。詐欺師は1枚だけ上手でなければいけない。2枚、3枚上手では務まらないのだ。

日本式の美

陶芸

私は所属している組織柄、陶芸に触れることが多い。日本の陶芸は非常に不思議で、世界的に見ても異端の存在である。

日本の陶芸

日本の陶芸において、茶道の影響は全てであるといっても差し支えないほど大きい。作風だけではなく、審美においてもそうである。茶道人に好まれるような(数寄風の)ものが歴史的に有力者たちを惹きつけ、舞台裏での駆け引きなどに用いられてきたのだ。その美を代表したものが、古伊賀の名作「破れ袋」だろう。この緑が逆説的に赤を暗示し、人肌の柔さを含んだ亀裂に緊張感を与えている。

破れ袋 織部 に対する画像結果
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 日本の陶芸は、その審美が欧州白人の価値観に打ち勝った一例であると思う。西洋の美意識は基本的に「聖」である。英国のスリップウェアなど例外はあるが、マイセンに代表される硬質磁器は植物の絵や金・銀をあしらったもので、聖典にある宴の祭器のように、優雅で女性的なものが多くみられる。

 そのような欧州といち早く交流があった明治期の日本は僥倖にも、陶芸の文化においてアジアでもとりわけ醗酵の進んだ地域であった。バーナード・リーチなどの西洋人に影響を与え、上のような価値観に市民権を与えたもうたことは、のちの「禅」などに統合され、日本文化全体に対する理解の先駆けになったのではないか。

日本の美

行く先のない美

 結論から言ってしまうと、日本の美は袋小路の美である。他には「羽化」と言い換えてもよいだろう。昆虫は脱皮を繰り返して順当に成長してゆくが、ひとたび羽化してしまえばそれ以上成長することはかなわず、その代わりに羽を得るのである。日本の陶芸は、茶碗を丸く作るという陶人の悲願を(ほどほどのところで)放棄し、そこから培った技術や精神に従って原初に立ち返り「再構築」したものだと考える。

 この意識は茶の湯が大成した鎌倉から安土桃山にかけてのことと思われるかもしれない。しかし私は、実は平安時代にこそ、この精神は生まれたと考える。平安時代は貴族が文化の担い手であった。貴族が詠むものは和歌であり、そこには折り返しの精神が見事に体現されている。

 

「つくばねの 峰よりおつる みなの川 こひぞつもりて 淵となりける」

 

 これは陽成院の(私が悲しいほどに好きな天皇だが)詠んだもので、恋の心情をうたっているのに驚くほどネガティブである。西洋の讃美歌などとは違って、日本の恋は「余ったパワーが毒となっている(病んでいる)」様子をアピールするものが多い。大昔はメンヘラが様式であったのだ。これはなんと愛らしいことではないか。

危機感

私はこのブログを書くにあたって、危機感を募らせている。日本の美には将来がないのだ。日本の美は、発酵の美である。発酵というものは、賞味期限を過ぎたら「腐敗」となってしまう。西洋の美は積み重ねる性質のもので、歴史的に過去のものは腐敗してゆくが、新しいものはその歴史を継ぐ正統な後継者として「ストーリー」が出来上がっている。一方で、日本の美は過去のものの焼き直しであり、積み重ねてゆく素地が無いのだ。糠床の上でジェンガをするようなものだし、ぬか床が腐ったらオシマイだ。

他に

 盆栽なども日本的審美眼の賜である。中国の清朝では、(このころ中国の人口が初めて億を超えたと推測される)女子に纏足を施して正常なものを意図的にゆがめる文化が流行したが、我々はずいぶん前から樹木に同じようなことを施してきた。纏足とは足を意図的に折り曲げた状態で固定し、小さい靴に押し込めて形を矯正するものであった。これは樹木を小さい鉢に押し込め、枝を念入りに落として成長を遅らせるのと何の違いがあろうか。そして彼らの足・根が行き場を失った絶望により醸す美というのは、8つの島に閉じ込められた我々の心と大きく違うだろうか。

ちなみに

 盆栽といえば、格付けチェックでの見分けである。盆栽の目利きが始まって2年だが、私はリアルタイムで見て2回とも当たったので、私なりの攻略法を伝授したい。その方法とは、「名前とそのものが対応するか」を判断することである。

 例えば、下の画像は題が「華厳」であることが伝えられ、どちらがそうであるかを見分けるものだ。

格付け 盆栽 に対する画像結果

 「華厳」とは読んで字のごとく「華やかで厳か」という意味だ。華厳といえば、華厳の滝が有名であるが、あれは滝が華厳だから名付けられたのであって、華厳の滝から盆栽が名付けられたわけではない。すると、霊峰のような高貴さを漂わせるAが正解だと分かるだろう。Bの方は強いて言うなら「華厳の滝」だ。厳かさが足りない。

 もう一つのほうが以下の問題だ。

格付け 盆栽 に対する画像結果 

この時の題は「序の舞」であった。これは、能における「序・破・急」と関係が深いだろうと予想できる。(歌舞伎以前の伝統芸能には広くみられるらしい)であれば、どちらがより「能っぽい」かが判断の決め手となろう。能は非常に日本的な精神を内包している。それは「金よりも銀」「磁器よりも陶器」といった具合であることを鑑みれば、いかにも「踊り子」といった風の右側でないことがわかる。左側の磨き上げられた樹皮に浮かぶ人魂のような果実がいかにも幽玄な風であり、能の神秘的な雰囲気によく合致していると思う。(葉が一枚もないのだが、あの木は大丈夫なのだろうか?)新宿の伊勢丹で右の(=和菓子)ものを見たが、やはり「力の漲る感じ」は感じられなかった。

さいごに

 失われた20年というのは西洋庭園の木が盆栽になるに十分な時間であった。我々は皆、斜陽の精神に震える鑑賞者である。あるものを極めた先に到達する点から少し「折り返して」しまうことに美を求める性質がイケナイものだと分かっていても、浸ってしまう。

真理の揺らぐ現象について

正しさ

学問と捨象

 現代の、抽象によって事象を部分的に観測する学問によって認められた正しさは、相対的なものである。例えば物理の初歩的な問題を例にとろう。

 ある物体を投げたとき、その速度vは、v=gt-v0である。しかし、これは空気抵抗を無視した話である。空気抵抗は、速度と比例の関係にあるため、ある定数kを用いてp=-kvと表せる。すると、空気抵抗も含めた速度の式は...少なくとも前の式とは違っているし、現実とはより近くなっているだろう。

 この例を出した目的は、以下を言及するためである。「現実の現象は多くの要因が絡み合って起こっている。そのうちのいくつかのみに注目し、関係性を明らかにすることが可能である。それをパズルのように組み合わせて一つの統一した理論体系を構築しようとしている。」

より直感的な理解

これを通して何が言いたいかというと、「要素間の相対的な関係は、系全体の絶対的なものとは違う」ということである。左から理論A、理論Bとの単純接続、理論AとB接続形態である。それゆえ我々はこのフラグメントを世界の大まかな傾向として認識することにしか使えず、厳密な分析に使おうとすれば、必ず専用のチューンが必要になるのである。

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理論の接続と変性

 これは統合すべき法則が多くなればなるほど、理論体系が大きくなるほどに全体的な修正が必要になってくる。

系とは何か

論理

 論理とは推論であり、基本的に「A→B」である。しかしこれは我々の頭の中にある一部分にすぎず、安定ではない。A→B→C→Aというように、「回路」が形成されているとき、それは安定になるのだ。なぜなら「A→B」というのは「A」が真でなければ観測されない(=無である)のに対して、このような「A→B→C→A」というのは、A,B,Cのうち一つでも当てはまればその回路が有効になるためである。また、上の回路においてはA→BでありB(→C)→Aが成立するし、輪が認められるのであれば任意の輪上の点p、qにおいてp→qかつq→pが成立する。

 ある人は、「辞書は相対的なものである。なぜなら辞書に載っているすべての要素はトートロジーだからだ」といっていたが、私は逆に、トートロジーという相対性の中で、非常に大きい相対性の系を築くことによりその系内での絶対性ー記号が繰り返されることで意味が確からしくなることーを高めたものだと言いたい。言語の重みは辞書の重みなのだ。(相対性と絶対性の間でうまく分節しているのが辞書のありようだともいえるが、これはまた別の機会に。)

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クモの巣モデル
論理に対する私見

 すると、我々の論理というのはクモの巣を例として考えることができる。我々が内面に構築している論理のシステム(=価値観)がクモの巣であり、考えるべき事物が「羽虫」である。当然クモの巣は譬喩にすぎず、現実の我々が内部に張っている論理の「巣」はさらに高次元で複雑であるが。我々が巣に羽虫を感知したとき、我々はその場へ向かい、巣の格子点に足を置いてその獲物を咀嚼する。そして破損した巣を修理するのである。我々はある事象に遭遇した時、自分のもつ言葉、価値観でそれを語り、そして論理構造を最適化して自己のその領域に上書きするのである。

 マルクス主義や幽霊の話など、不可能な事象についても人間は精緻な巣を構築することができる。しかし、それらの巣には獲物がかからない。「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」とはこういうことなのだろうと考える。そこで守株待兔しても餓死するだけなのだ。さらに、その巣は他の場所で巣を構築した際のノウハウを流用したにすぎず、そのケースにぴったりと用が足りた構造とは程遠い。ここで、一つのマスを取り出してみよう。以下の構造を仮定して、輪A→D→G→B→C→F→E→Aを考える。

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ある系

 理論体系とは無謬な系であるから、任意の推論において他の推論を経由して自身を言及できる。その網において一つのトートロジーを取り出してみたときに、それを統合した論はすべての単理論に影響を受けているため、それより小さい。そして、端のある論理では現実の解釈と端が一致しているが、環状になると現実の解釈は完全に単論理の内側に入る。

 A→D→G→B→C→F→E→AはA→D、D→G、G→B、B→C、C→F、F→E、E→Aのそれぞれの単論理よりも複合的であるがゆえに全体的なチューンを受けている。この作業は厳しい。基本的にはA→DにD→G(A→GとD→Gを確認)を追加し、A→D→GにG→B(A→B、D→B、G→Bを確認)を追加し...と一つ追加するごとに最適化していかなければならない。

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完全な系と各理論の関係

 

 さらに、この輪はすべての要素間で影響しあっているため、要素の数をnとしたときにn(nー1)/2回のチューニングをしなければならない。(中には物理法則のように1っ本の数式に新しい要素の影響分を加減するだけで済んでしまう場合もある。)その際、調和させるべき要素を集合Aと置くならば、調和の際に言及すべき要素はAの冪集合になるのである。

結論

 これをまとめてみると、「我々の言葉というものが相互に立脚しあって現実を覗く定規の役割を為している」となる。しかし、このスケールは我々が何かを認識しようとするたびにその一番興味のある部分がゆらぎ、真理も揺らいで見えるのだ。どのようにすればこの世の真理に到達できるのか、所詮我々は複雑な栖み家に蔓延るモンスターに過ぎないのではあるが。

 

 

 

 

色即是空と記号論

記号論

記号

 記号論といえばソシュールが有名である。彼の記号に対する理解はとても直感的でわかりやすい。しかし、ふと「それは記号の性質ではなくて観測者である我々の性質ではないのか?」と問いたくなるようなものでもある。

 記号、(signifier)それは匂いであったり音であったり、はたまた光信号であったりする。我々の脳が外部から受け取る各種物質的な媒体を表し、これと我々はある種のキャッチボールのような関係にある。我々はこの媒体より受け取ったモノから「情報を抜き出して利用する」という利用者の立場を行使しつつ、「このモノの全貌を解明して、我々の『そのモノ』に対する理解を上書きする」学習者の行動も行うのである。

 例えば、「ん」と2回発音してみてほしい。この二回の音をもし、精密なレコーダーで録音し、音の波形を機械で比べてみれば、必ずどこか異なっているはずである。しかし、我々はそれが同じ「ん」の音だと認識できる。

 実は日本語には4種類の「ん」がある。「ワンタン麵館」といってみれば、それぞれの発音で舌の位置や唇の状態が異なっていることがわかる。しかし、これは外国語を学び、発音記号などの視座でその言語を「展翅」してみて初めて分かることであり、日本人の認識フレームワークではこの発見に至るのは困難であろう。才能があれば別だが。ここで言う才能とは、発話に間違いがあったり、常人と異なる音声認識能力を持つことを指す。

 また、ここでの分類軸も印欧語の差異を説明した体系を日本語に当てはめただけにすぎず、仮にアフリカの言語を説明する体形があれば、(アフリカの諸語は印欧語よりも音素が多い。より精彩な言語観が築かれるだろう。)日本語のさらに細かい違いについても言及される可能性がある。

記号2

 先の例は、我々が1つしかないと思っていた「ん」が実はいくつかの下位分類があり、そのいくつかの「ん」という記号と我々の脳が認識する「ん」の間に事象の結節点があるということを示すためのものである。ではなぜこのような現象が生まれたのか。これは、記号の繰り返す性質が関係している。

 記号は反復されるうちに、その性質が固定されていく。はじめは個別事例しかなかったものが、繰り返されることによって「公の意味(denotation)」と「個別の意味(connotation)」になっていくのである。(赤=公、薄青=個別)

 ここでいう公の意味とは、例えば「run」においては「進むっぽいこと」であって、個別の意味とは「(会社を)経営する」「走る」にあたるようなものである。公の意味はその語の属性と言い換えてもよい。

 先の「ん」の例に照らせば、青い領域は我々が毎回発音するすべての「ん」際の小さな音のズレであり、赤い部分は我々の認識するすべての「ん」である。

 ただ注意してもらいたいのは、我々が一般のコミュニケーションで提示されるのは一番左の、「その場限りの意味」であり、それを一番右の、我々の解釈のフレームワークで処理することによって意味を得るのである。だから、或る会話の場で「A」の言葉を皮肉の意味を込めて「¬A」である対象に使ったとしてもそれは誤用とはならずに、皮肉となるのである。

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反復の効果

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立体モデル



 

これは記号論理で言えば赤い部分は「A∧B∧C...」(∧は「かつ」をあらわす)であり、青い部分は「A∨B∨C...」(∨は「または」を表し、「かつ」領域も含むとする)である。

応用

集合に係る同一性

 このような記号の性質は何も1単語のみに起こりうることではない。いくつかの言葉のグループであったり、解釈などが類似と差異によって一つの解釈にまとめられることがある。たとえば、二字熟語の読み方の例に出てくる「湯桶読み」と「重箱読み」がそうである。湯桶読みとは、訓音読みであるが、ニュアンスをわかりやすくするために原理(1文字目が訓、二文字目が音)から例(湯桶)に立ち返った表し方をしている。他には、イントネーションなどを表す時に、一般的なものの例を出すのも、これである。(善逸=えんぴつ、など)

色即是空

 色即是空とは、色相(示相化石、雲相)のものは空相の性質を持ち、空想の性質のものは色相である、という仏教思想である。これを記号の反復の考え方で解釈する。

 

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無限小に近づく赤色領域

 基本的に、集合A、B......としていた時に、A≧A∧Bであるし、任意の集合S、Tについて、S≧S∧Tである。そのため、物事を解釈する軸を無限大に拡大していった場合にできあがる「すべてを説明できるもの」は限りなく小さいものになると予想できるし、それがいわゆる「空」ではないのだろうかと考えた。しかし、この「空」は領域は小さいが、すべてを説明できる性質を持っており、先に挙げた「その場限りの意味」の青い楕円に必ず合致するものである。(精度の高いものならば)

 そうであれば、空は色の性質を持ち、色は空の性質を持つという色相と空相の性質にも矛盾しないため、これがそうなのだといえる。

余談

仏教には刹那滅という考え方がある。それは、「すべてのものは、発生し、存在し、変化し、消滅する過程を経る」という考え方である。この考え方は非常にあいまいで多くのものに適用できるので、何か難題にあたった時に(比喩的に用いて)解明する糸口に使えそうなものだと感じた。

学問に関して

学問とは

学問

 学問とは説明する行為である。何か物事が起こった時、それを説明する行為が学問である。理系・文系を問わず、すべてがそうであろう。論文と呼ばれる特殊な媒体はこのために書かれているし、学問と論文はほぼイコールで結ばれている。それ以外にも紀要や報告書といったものはあるが、学問を代表する花形はやはり論文であろう。

 論文というものは比較的現代の形式である。古代のアカデメイアソクラテスの交流会ではより広範なテーマについて扱っていたし、発表の形式もこのようではなかった。ここでは相対的な視点に立つため、これらを批判はしない。

 

 

資本主義における学問

再現性

 資本主義における学問とは、再現性である。この言葉は理系の分野でよく聞く単語である。表す意味としては、ある現象において記述した範囲だけを抽象しても同じようにそれが成り立つかという程度のものだ。つまり、ある認められた条件下で特定の操作をすれば誰でも、いつでも、どこでも同じような結果になる、ということだ。これは理系では学問のコンテンツとして内包しているが、ドル箱である文系学部では大学の構造自体が再現性を担保として運営されている。

文系の再現性

 文系における再現性とは、「ある程度の学力を有する者が、ある程度の時間と金をかけ、ある程度のカリキュラムをパスすれば、誰でも学位がもらえる」というものだ。文系の研究内容とは、版画を色を変えて何度も刷るのと同じで、一つのメゾッド、関数に異なるテーマを代入し、結果をまとめるものである。このコンテンツは、教師に従順な指定校推薦の生徒にも可能であろうと見積もられていることも、昨今の入試の堕落に関係しているのではなかろうか。

哲学批判

 再現性という点で、哲学は最も遠くあるべきものだ。哲学的な仕事とはすべて一回きりである。この意味は、「哲学の扱う内容が根源に位置しているために、再現性のある手法で導き出されるほかの結論は、最初の結論と同値/代替可能」ということだ。再現性の魔術にかけられた資本主義時代の大学に真の哲学は存在しないのである。

 哲学史ウィトゲンシュタインをはじめとした個人に関する研究も多くある。しかし、哲学は最も純粋な形でしか存在しえないのであって、そこに歴史を混ぜれば歴史学になるし、個人研究を入れたらそれはその個人でしかないのである。ウィトゲンシュタインを研究する人が研究しているのは哲学ではなく、ウィトゲンシュタインでしかない。それは芥川を研究するのと何ら変わらない。芥川は文学の位置づけであるから、文学科に入れてもらってはどうであろうか。

擁護してみる

 私は先ほど、指定校推薦の精度を批判したが、これに関して私は最近考えを改めた。(決して過去-現在の劣-優を主張に投影する意図はない。言葉通りの意味だ。)以前私は上質な教育は才能のある者に与えられるべきだと考えていた。才能のある者がより能力を伸ばして民を率いるリーダーになればよい、と。しかし、現在の日本は、少数のエリートによって率いられるシステムではなく、良い感じに教育された凡夫によって回っているのだ。ここで、教育の意義に関してパラダイム転換が起こった。つまり、「凡夫を使える人材に鍛え上げるのが教育だ。」と。

 料理人が腕を発揮する場面は、食べられない/まずい食材に出会ったときである。寿司職人のように最上級のマグロを最上級の技術で調理するのは実は例外であり、町の中華料理屋で普通の野菜、肉、調味料で食べられるレベルに仕上げるのがえらいのだ。この理屈ではフグ料理人が一番偉いことになるが、何事も程度である。

 結論として、資本主義社会における教育と指定校推薦は、再現性という軸で説明すれば矛盾しないということだ。たまにしか釣れない極上のマグロをさばく職人よりも、民衆の栄養を改善する料理人が求められているのである。♪~風の中のスバル~

未来を見据えて

今後

今後は、中国や東南アジアでの頭脳労働者自国供給により非常に深刻に頭脳労働者の余る市況になると私は予想している。理系の特殊技能を持った人材は并非如此であるが。反対に、肉体労働者は死ぬほど市場ニーズが高まりそうである。

 

トロッコ問題について

ロッコ問題

あるところに壊れて暴走したトロッコがある。そのトロッコの行き先には5人の作業員がおり、このままではひき殺されてしまう。そのトロッコにはもう一つの行き先がある。その線路の先には1人の作業員がおり、トロッコの路線を切り替えて5人を救った場合、彼は死んでしまう。あなたには選択権がある。どうするべきか?

 

この問題の不幸な点は、あまりにも有名になりすぎてしまったため、知的議論の訓練を受けていない者にまで発言の機会を与えてしまったことだ。以下に例を挙げる。

45-ch.com

いかにも2チャンネルのように無礼で品のない言説であろう。こんな小さいゲームのようなもので人を見下すふるまいをして偉ぶるのは小心者の行いである。それはさておき。

 

文系の議論というのは、理系の議論とは違って、底なしの批判ではありえない。ある論を語る上で認めるべきラインというものが存在するのだ。功利主義であれば、一人が感じたと認められる幸福の総量はある程度平等であり、クスリや生来の特性で幸福度を増幅したとしても他人とある程度平等に扱われる、などだ。(本業の方、間違っていたらすみません。)

 

ロッコ問題は面白いことに、我々を無意識に議論へ駆り立てるミームを含んでいる。その無意識を明らかにしたうえで、この問題を「解剖」して差し上げよう。

この問題を然るべき軸で脱構築する。

この問題は、5人の人が危機に瀕しており、それが達成されなかったときに1人の人が危機に瀕する。では逆にしてみたらどうだろうか。

 

 

「暴走したトロッコの先には1人の作業員がおり、その前で分岐する線路上には5人の作業員がいる。あなたは切り替えるか?」と。

 

これに関する問いは存在しえない。問うまでもないからだ。

「線路の先には一人の作業員がおり、彼を助けるために線路を切り替えたら、線路のっ先には5人の作業員がいた。」という言い切りの形で、しかも悪い結果でしか存在しない。彼を助けなかったならば、分岐の先の5人に言及することはなくなるからだ。必要以上の要件は付け加えない、オッカムの剃刀である。

まるで聖書に出てくる寓意話のようだろう。

 

コ 閑話休題ーついでに

ある人は、「もしその1人が自分の大切な人であれば、とるべき行動は変わる(切り替えなくなる)」と主張する。この主張はこの問題よりも低次に位置するため、この問題のシステムによって自動的に反証される。

「一人が私の大切な人である」確率は、「五人のうち誰かが私の大切な人である」確率よりも低い。1人に限った話でいえば、正確に5倍の差がある。行動を変えるための理由にはならない、その人が愚かでなければ。

脱構築の結果

 これはただの静摩擦力の問題だ。「切り替えるべき」という行動させるFに対して、「殺人は悪である」というブレーキがどれほど『静摩擦力』を発揮できるかということを、行動「するか、しないか」というYes or No を媒介して問うているのである。

 であるからして、回答の精度を高めたり真意を補足するために、より鮮やかでクリエイティブさの発揮された回答をしてもよい。しかし、「トロッコを脱線させる」「作業員に危険を知らせる」など前提を共有しないものは本当にナンセンスで破壊的、台無しである。

 あるいは、道端に落ちている小銭を拾う問題と相似であるともいえる。あなたが歩いていると、1円玉が落ちていた。拾うか?では100円玉、1000円、1万円ではどうか?この金額を平均し、どこまでブレーキが効くかという統計学上の定数を求める話でしかないのである。先の問題に照らせば、

 

[変数A]人が線路上に[変数B]人が分岐した線路上にいる。ただし変数A>変数B

 という2変数の表における[Yes/全体]の統計の結果だけが真に役立つ値なのであり、トロッコ問題はただ人々の摩擦係数を説明したものにすぎないのである。

この問題のキモ

 この問題のキモは、我々がサンデル教授の前で話す内容は、懺悔室で話す内容と同じだということだ。そこには多分に自己正当化が含まれている。我々が線路を切り替えなかった場合、我々の道徳性を必死に説明するし、線路を切り替えた場合もまた自己の正しさを必死に立証しようとする。/というそしりを免れない。

 アカウンタビリティという言葉がある。これは説明責任という意味で翻訳される以上に、己の行動の正しさ(を以て罰を逃れる)を伝えるという精神性がある文脈において使われる言葉だ。この問題においても、論理的な説明と、巧妙に隠された自己弁護(観測者もこの呪縛から逃れられないため)が似た性質のものであるがゆえに、この二者は分離不可能なのだ。それゆえ、この問題はここまでしか深められないのである。いわば「われ思う、ゆえにわれあり」である。

 もし、論理的に予想される両者の違いを説明できる問題(「非合理性」と「それを合理化する力」の鬼ごっこである)が存在したとして、その結果この二者が分離されたら、それはこのトロッコ問題よりも一段階高次元の問題といえる。

ついでに

「陰関数」(比喩)は現象を記述するのに便利な概念である。また、陽関数(比喩)よりも高次元な気がする。一つの関数を別の関数に投射する陽関数はどうしても「小から大」の方向に「劣から優」の価値が言外に対応付けられてしまう。主観が混入してしまうのである。陰関数のように、二つの関数の関係性を規定しただけのものは状態として存在するだけであり、主観によって一通りに決定する必要が無いため、よりピュアな「状態」の記述に向いているのである。

ついでにー了

文を締めくくるが、ここまで読んだ諸氏に持たせる手土産として、トロッコ問題の結論を書いておく。これは状態と行動の陰関数である。曰く「正当化したいなら何もしない(線路を切りかえないを隠蔽)べきだし、人を救いたいのなら線路を切り替えるべきである。」