アイディア集

アイディアについてまとめる。今後ブログを書く際に題材となりうるものである。

外山滋比古の「思考の整理学」を読んだ。そこでは、記憶したものを「醗酵させる」=更に価値を高める、ためには一度忘れる必要があると言っていた。しかし、どんぐりを埋めたリスのように永久に見つからなくては困る。そこで、どこかに記録を取っておくのである。これは私なりの実践である。いつか、誰かの養分になることを願って。

論の正と負の性質

 推論とは、結論を導くために行われるものである。例えば、「私は人である。」「人はタマネギを食べられる」という2つの命題があった時に、「私はタマネギを食べられる」(真である)という結論を導くものである。この結論は「人」「タマネギ」「食べられる」を適当に変更して、「猫はタマネギを食べられない」「チンパンジーヒガンバナを食べられない」といった風に変更可能である。これらの結論は最初に挙げたものとは独立したものであるため、片方の真偽がもう片方の真偽に影響を及ぼさない。

 先ほどは真の命題についてのみ取り上げたが、偽の命題に関しては語尾に「ない」をつければよいため、すべてを真の命題として取り扱う。

 推論とは結論を出すために使用されるものであるが、使用する人間によっては真逆の結論を導き出すことがある。アメリカの銃規制問題の主張がわかりやすい。

 銃規制賛成派は、銃の規制が犯罪の減少につながると言う一方で、規制の反対派は、銃の規制は市民の抵抗を不可能にし、犯罪の被害者を増やすことになると主張している。

 この主張を見ればわかりやすいのだが、前者は推論が2節(銃の規制・犯罪減少)であるのに対し、後者は主張が三節(銃の規制・抵抗不可・犯罪増加)なのである。推論の数を数えれば、前者は1で後者は2である。

 もう少し詳しくみてみる。論理展開には、「だから」と「しかし」がある。しかし、推論が結論を出すための道具である以上、結論を180度反転させる「しかし」の論理は何よりも意識されるべきではないだろうか。

 そこで、私は「しかし」で区切られる論理を一つとして数える考え方を提案したい。銃規制論の賛成派の論理は「だから」の一つだけなので0単位、反対派は「しかし」が一つだけだから1単位、という風に。すると、偶奇性が見えてくる。

論の輪との関係

 私は、以前の投稿で「言葉が張り巡らすネットワークの中に論理が解釈される」といった。先の偶奇性の論と併せれば、偶→奇→......→偶(A.B....A)でなければならないはずである。ただし注意してもらいたいのは、これは「しかし」を単位としてみた論理であり、一般のものとは違うということだ。

 偶から始まり偶で終わるものは議論の必要はない。結論が同じなのだから。しかし、偶で始まり、奇で終わるものは、水と油のように本来交わらないものである。偶と偶は同質性ゆえにその正しさが保証されているけれども、偶と奇はそれが完全な論理の切れ目でなければ正しいとは言えないのである。そのため、ジョイントが設けられるのである。AならばBしかしCならばDしかしEならばFしかしGという論理を考える。

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正と負とジョイント

ある結論を論じるにあたってAは正であるのに対し、結論は負である。ジョイントの役割は、否定の結論が、はじめの肯定とうまくなじむように説をつなぐことである。すなわち、「それが正しいなら、それが正しい」 というトートロジーの仮定である。これを認識することは難しいが存在はすると思う。これが存在しなければ、すべての否定形は背理法となり、尻切れトンボのように存在を失って立ちどころに消滅してしまう。フェミニストなど近年の社会学者は現代社会を否定することにたけている。否定はこのジョイントのおかげで、ある程度の正しさは担保されている。だからこそ、批判的(critical)に読むことで論それ自体の正しさを検証しなければならないのである。

 私が彼らに言いたいことは、「その説はある場面では正しいかもしれない。しかし、それが正しくない場合もある。」だ。

あくまでもアイディアなので、深堀りはしないが。

脳と冷却

 脳は人間の思考器官である。しかし、それはコンピューターとは違った挙動から成り立っている。人間の脳はシナプスがその結合を自在に変えて成立している。これはケイ素結晶の表面に刻印された魔法陣といくばくかの詠唱通りにしか動かないパソコンとは違う。(なろう症候群)

 人間の脳はどのようにして問題を認識し、結論を出すのだろうか。そして、問題が与えられたときに、時間の経過によって結論を導くことが可能なのはなぜだろうか。

 私の仮説はこうである。人間の脳は問題に合わせて「状態」を作る。この「状態」は完全ではなく「熱」を持っている。そして、この熱が「冷める」ことこそ、答えに向かってアプローチすることであり、冷めきって「安定状態」になった時、それは答えを探り当てたといえるのである。

 例えば、乱雑に打ったピンsがあったとする。これらのピンから適当に何組かを選んでゴムをかけるとする。これが「問題」である。それから、このピンを抜いたり打ち直したりしてピン間のゴムの長さを一定にする。この「平衡のとれた」状態が冷めた状態であると考える。これは脳の中では脳波やらなんやらが打ち消しあったりしているのではないだろうか。

 問題に対して間違った答えを用意するとき、我々は問題の前提条件を間違えているか、安定状態を錯覚しているかだ。例えば、問題の条件が本来これだけのピンを包含していなければならないのに、これだけしか考慮していなかった、だとか、冷却が進まずにピンの居場所がない、だとか、、、

 つまり、頭の良い人や大数学者は「問題認識機能」「冷却機能」が優れているのだ。これを補強するいくつかの知見を上げる。

問題を「ねかせる」

 問題を「ねかせる」と、自然と解けていることがあるそうだ。外山滋比古の本であって、学術論文ではないのはあしからず。これは、問題解決が「冷却」であって「加熱/エネルギーチャージの類」によらないことの根拠である。問題解決がもし加熱式に為されるのであれば、思考を中断することは結論への妨げであるはずだ。

 問題の段階で既に意識に作用が起こっている理由はこうである。。問題とは、それ自身は我々の中には存在せず、「こうすれば解けるんじゃないか」という予想の形でのみ存在する。プログラムでいう宣言のように、いくつかの変数をその問題に関連付けることで問題の輪郭を浮かび上がらせるのである。そして、一度輪郭が出来上がってしまうと、それに手出しすることはなく専ら内部で弄繰り回すのである。だから、もし輪郭の外に必要なピースが取り残されてしまった場合、その問題は解けないのである。時間を置くと問題が解けるようになるもう一つの理由は、問題に関連付けられた変数リストをリセットし、もう一度問題を解釈しなおす機会があるからだろう。

 イワシの大軍を想像してほしい。外のイワシは内部を包むようにして泳ぎ回り、群れの輪郭を形成している。中のイワシが外に出ようとしても、外のイワシが壁になって出られない。では、イワシの群れを解散させてみる。そうすれば壁はなくなり、中のイワシは自由に外にアクセスできるのである。

優秀なものが滅ぶメカニズム

 上位20%しか生きられない集団では、それらの中だけで平均化が行われる。一方で、例えば上位75%が生きられる集団では、より粗い平均化が行われることになる。一部の知的ぶった人間は進化論を引き合いに出して、「どの形質が優れているかわからないのだから、すべては残されるべきだ」といっているが、このような脳の形質こそ篩にかけられるべきものだ。進化とは究極の結果論である。結果がすべてであり、そこから予定調和的に導かれた説はなんら論理的な固さを持たない。だから、人間の分際では、それを意識すれども語ろうとするのは傲慢である。

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珍しさと平均化

 人間は交配することで次世代を残す。交配すると、その形質はおよそ平均される。淘汰圧の低下は、平均化する母集団を冗長にし、かえって種族洗練の妨げとなる。ユダヤ人は古来より迫害されてきた。しかし、一般的な認識では彼らはとても頭が良いとされている。これは、昔から無能を徹底的に淘汰してきたことで進化の指向性が高まった結果だといえる。ナチスによる大淘汰は皮肉にもユダヤ人の質の向上に貢献してしまった。

  優れたものは、滅ぶ。ここで三つの滅びのメカニズムを示したい。ここで言う優秀とは遺伝性のある能力の高さを指すのであって、私の精神から見ても失敗のない完全な存在ではない。現に私は彼らの失敗を指摘するのだから。

  優秀な人間はその能力を世に示す。すると、優秀でないものが増殖し、優秀さを希釈してしまう。こうして優秀さは滅ぶ。最初に示した通りだ。

 優れた物品や、それを製作する能力なども失われる。はじめは、純粋に優れた性能で勝負する。そうすることで性能の良いものが発生する。一方で、市場も成熟する。インフラとして人々の生活に取り入れられる。すると性能の良さではなく、コストパフォーマンスによって製品が評価されるようになる。コストパフォーマンスの高い製品とは必然的に優れた製品からいくらかの美点を欠くものだ。そうして、消費基盤を失った優れたものは死んでしまうのである。

 ほかに、大量の不純物を抱え込むことで滅ぶことがあり得る。フランスなどはそうだ。奴隷を社会に入れ、はじめはこき使っていた。しかし、戦争などで奴隷の働きを所与のものとして総力戦を行ったことで、奴隷を市民に昇格させなければならなくなったのだ。奴隷を認めた場合は使用者による競争が発生し、いかに労働力を確保するかという争いが発生し、結果として優れたものを排除するゲームになってしまう。

 ゲームの戦略は場合分けと正・負の対応付けによるもの(ある場合はこうする、それ以外の場合はこうする)で表され、それは先に説明した論理の偶奇性と重なる部分である。そして、「しかし」で連なる単位の節は必ず戦略が切り替わる点に存在するのである。

 

以上

 私の思索は旅に出ます。目的地はありません。安住の地にたどり着けないかもしれない。もう戻ってこないかもしれない。でも、それは怖いことではありません。それでも未来の自分がどうなのか、を予想して現在の行動を設計するのは、たくさんの霊感を要する。