学問に関して

学問とは

学問

 学問とは説明する行為である。何か物事が起こった時、それを説明する行為が学問である。理系・文系を問わず、すべてがそうであろう。論文と呼ばれる特殊な媒体はこのために書かれているし、学問と論文はほぼイコールで結ばれている。それ以外にも紀要や報告書といったものはあるが、学問を代表する花形はやはり論文であろう。

 論文というものは比較的現代の形式である。古代のアカデメイアソクラテスの交流会ではより広範なテーマについて扱っていたし、発表の形式もこのようではなかった。ここでは相対的な視点に立つため、これらを批判はしない。

 

 

資本主義における学問

再現性

 資本主義における学問とは、再現性である。この言葉は理系の分野でよく聞く単語である。表す意味としては、ある現象において記述した範囲だけを抽象しても同じようにそれが成り立つかという程度のものだ。つまり、ある認められた条件下で特定の操作をすれば誰でも、いつでも、どこでも同じような結果になる、ということだ。これは理系では学問のコンテンツとして内包しているが、ドル箱である文系学部では大学の構造自体が再現性を担保として運営されている。

文系の再現性

 文系における再現性とは、「ある程度の学力を有する者が、ある程度の時間と金をかけ、ある程度のカリキュラムをパスすれば、誰でも学位がもらえる」というものだ。文系の研究内容とは、版画を色を変えて何度も刷るのと同じで、一つのメゾッド、関数に異なるテーマを代入し、結果をまとめるものである。このコンテンツは、教師に従順な指定校推薦の生徒にも可能であろうと見積もられていることも、昨今の入試の堕落に関係しているのではなかろうか。

哲学批判

 再現性という点で、哲学は最も遠くあるべきものだ。哲学的な仕事とはすべて一回きりである。この意味は、「哲学の扱う内容が根源に位置しているために、再現性のある手法で導き出されるほかの結論は、最初の結論と同値/代替可能」ということだ。再現性の魔術にかけられた資本主義時代の大学に真の哲学は存在しないのである。

 哲学史ウィトゲンシュタインをはじめとした個人に関する研究も多くある。しかし、哲学は最も純粋な形でしか存在しえないのであって、そこに歴史を混ぜれば歴史学になるし、個人研究を入れたらそれはその個人でしかないのである。ウィトゲンシュタインを研究する人が研究しているのは哲学ではなく、ウィトゲンシュタインでしかない。それは芥川を研究するのと何ら変わらない。芥川は文学の位置づけであるから、文学科に入れてもらってはどうであろうか。

擁護してみる

 私は先ほど、指定校推薦の精度を批判したが、これに関して私は最近考えを改めた。(決して過去-現在の劣-優を主張に投影する意図はない。言葉通りの意味だ。)以前私は上質な教育は才能のある者に与えられるべきだと考えていた。才能のある者がより能力を伸ばして民を率いるリーダーになればよい、と。しかし、現在の日本は、少数のエリートによって率いられるシステムではなく、良い感じに教育された凡夫によって回っているのだ。ここで、教育の意義に関してパラダイム転換が起こった。つまり、「凡夫を使える人材に鍛え上げるのが教育だ。」と。

 料理人が腕を発揮する場面は、食べられない/まずい食材に出会ったときである。寿司職人のように最上級のマグロを最上級の技術で調理するのは実は例外であり、町の中華料理屋で普通の野菜、肉、調味料で食べられるレベルに仕上げるのがえらいのだ。この理屈ではフグ料理人が一番偉いことになるが、何事も程度である。

 結論として、資本主義社会における教育と指定校推薦は、再現性という軸で説明すれば矛盾しないということだ。たまにしか釣れない極上のマグロをさばく職人よりも、民衆の栄養を改善する料理人が求められているのである。♪~風の中のスバル~

未来を見据えて

今後

今後は、中国や東南アジアでの頭脳労働者自国供給により非常に深刻に頭脳労働者の余る市況になると私は予想している。理系の特殊技能を持った人材は并非如此であるが。反対に、肉体労働者は死ぬほど市場ニーズが高まりそうである。