現象の間には「膜」がある。

論理的現象の間には膜が存在する。

この膜は処女膜ではない。いや、処女膜かも知れない。

結論。「私たちの意識が棲む論理空間というものは、論(世界を分割するもの)の数だけ膜で仕切られている」ということだ。この膜は当然メタファーであり、意味合いとしては「何となくそこに存在しているけれど、我々の論理活動には何ら影響を及ぼさないもの、という意味である。

 

ここで言う「影響を及ぼさない」は、本当に無意味な存在であることを示すのではない。「影響を及ぼされていた」ということに、膜の見せる幻想から脱してはじめて気づくのだ。そのころにはすでに膜の影響を受けていないわけだから、(トートロジーか)我々の意識に「影響を及ぼしている」と認識することはできない。

 

さて、膜の効果について論じていきたい。膜とは壁のようなものであって、壁ではない。我々は壁の前で立ち止まるように、膜の前でも立ち止まる。そしてそれにぶつかってみようという動機がない限り、膜の向こうに世界があることに気付かないのである。この意味で、膜の輪郭は我々が無意識に信じている常識と似ている。

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膜がある場所には言葉の境界がある。言葉は、違うものを指すためのものである。完全に同じものであるなら、その言葉は必要ない。フランスには馬車を表す言葉がいくつもあるそうだが、それでも夜会用の馬車、謁見用の馬車、二人乗りの馬車......と違いは存在するのである。それはフランスが馬車の文化だからである。日本語は馬車のバリエーションは貧相だが、敬語が発達していて、謙譲語、尊敬語、丁寧語など、動詞の「敬体変化」とでもいうべき派生が存在している。

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膜は破るためにある。

処女膜ではない。

膜というのは、破ることで世界を広く認識できるようになる。膜を破るのは教育によって基本的に習得されうるであろう技能である。システマティックな破り方として私が提案するのは、一つ正しいと思われることを言って、「~は間違っている。なぜなら~」という風に無理やり間違っている理由を探すものである。

例えば、「銃は規制されるべき」というのは間違っている。「なぜなら、銃を持った悪人に対して対処できなくなるからである」といった具合に。(私の膜は既に破れているし、この道はもう何度も通ったので膜はカスほども残っていない。そのため、このロジックに出会った感動はもう思い出せない。)

当然、この間違っている理由に対して同様の方法を行使してもよい。

「~の理屈は間違っている。なぜなら、警察が銃を持てばよいからだ。」

「~の理屈は間違っている。なぜなら、市民が銃を持たなければ警察が腐敗するからだ。」

**小休止

議論領域に注目してほしい。最初の悪人with銃は、「銃を持った悪人」が議論領域だ。

次の「銃を持った市民」の論理は、「銃を持った悪人に襲われ」かつ、「銃を持った市民」が対象で、反対論理として、銃を持った市民がある確率で悪事を働くとすると、

悪人に襲われる確率 <市民が悪事を働く の場合銃を規制すべきだし、

悪人に襲われる確率 >市民が悪事を働く の場合銃を規制すべきでない。

 

しかし、これで終わりではない。「悪人に襲われる」というのは、「悪人がいる」かつ「襲われる」という意味であり、悪人の数は銃を持つ市民と比べるべくもない。そのため、悪人に襲われるよりも、銃を持った市民に襲われるほうがより頻繁に起きるだろうということだ。(インフルエンザ検査薬で、陽性者よりも擬陽性のほうが多くなる理屈と似ている。)

**小休止終わり

**小休止2

思考の詳細は幾通りもあるが、結論は2通りしかない。そうか、そうでないかだ。これは思考を思考へ展開する問いでは成立しないが、思考を行動へ展開する問いではどちらかが答えとなる。

なぜなら、行動には「する」か「しない」かの2通りしかないからだ。質、量ともにヴァリアブルな思考を行動の有無というデジタルに落とし込む際に「結論」という両方の性質を兼ねた形態をとる必要があるのである。

国語の問題でいえば、記述式か、「ア・イ・ウ・エから選びなさい」、かの違いに似ている。

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膜を破る弊害

膜を破り慣れると、自力でしか生きられなくなる。常識を疑うことが、膜を破ることとほぼ同義だと述べたが、これを行いすぎると常識を失ってしまい、人間の生産性は大きく下がってしまう。人間は自分の生活をほとんど惰性で生きているのである。それは常識や習慣であるが、それを失うと極端な話、「今日は何を食べるか」という問いに対して、「私は長生きしたい。そのため野菜と肉をバランスよく食べる食事が望ましい」と考えたところで「なぜ私は長生きしたいのか」と考え始める、さながら狂人のようになってしまう。膜を破っても、そこに幕があったことを忘れてはいけないのだ。

つまり、ここからいえることは

1破る膜は少ないほうが望ましい。 

2破った幕は回復しない(忘れれば或いは。破れやすくはなる。)

ということである。

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編集において付け加えるが、膜はその者が破らなかったことによって強化されてゆく。記号が反復によって自己の性質をより確固たるものにしてゆくように、「膜より先の空間アクセスへの有無」が膜(=空間の終端)の存在によって象られて強固になってゆく。そして膜によって区切られた空間はその者の自己同一性となるのである。

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霊感

しかし、「クリティカルな現実認識のために、必要な膜だけ破りたい。」という人もいるだろう。その答えとして、「霊感を鍛える」がある。霊感とはいうなれば「精神の領域にない情報と矛盾しない結論を出す能力」である。それは例えば、つる植物が支柱もないのに真上に伸びている様子である。つる植物の茎は柔らかく、一般的な感覚では重力に負けて倒れてしまうはずである。しかし、必ず倒れるというわけでもない。天文学的な確率で、重心が茎の真ん中に厳密に位置していれば、倒れない。

霊感とは無窮の真実属性であり、この世界における真理との間に発生する静摩擦力である。この天文学的確率に再現性を求める莫迦らしい行為を真剣に追及することが、霊感を鍛えることだし、私はそうしている。

 

思考/思想とは

思想は深まらず、脳は老化する。

思想とは何か

思想とは、結局のところ我々の頭脳のアウトプットする一連の情報の束に他ならない。様々に階層を設けられた情報は、隣接する階層のそれと関係性を持たされる。これが真と偽の属性に分化され、各々の人間に分け与えられるだけの多様性を紡ぎだしている。

情報とは何か

思想が情報の束であるなら、情報は何であろうか。それは階層である。

例えば「青森県のリンゴはおいしい」という主張があったとする。

これは、(上位概念の全事象)¥青森¥リンゴ¥おいしい という3つの階層によって構成されている。樹形図を描くのであれば、

¥県(47)¥果実(非常に多い)¥主張(非常に多い)というようになる。しかし、それぞれが正しいかシミュレートするにはこの分岐は多すぎる。これは結論という山頂から下方に広がる大地を眺めているからであって、下にいる我々が目指す山頂がただ一つであることを考えれば、逆側のアプローチが必要である。

つまり、¥青森(正しい)¥リンゴ(正しい)¥おいしい(正しい)

という風に、あるものが正しいかそうでないかのみを判断する方法だ。ここで、真を1、偽を0とすれば、この主張は111と表せる。

総ての桁が1とはなんとも都合の良い例えであろう。今度は0を含んだ例を挙げる。

「青森でおいしいものは何か?」がそうである。

ここで言及されているものは3桁目の青森と1桁目のおいしいであるため、この問いは「101」と表される。そこでリンゴがおいしい、と答えたならば、それによって主張は111となり、一つの情報となるのだ。

つまり、0を含んだ情報は問であり、すべて1で構成される情報は主張であるのだ。

情報の束とは何か

ここで諸君は「青森の名産はリンゴだけではない」と思うだろう。例えば「マグロもおいしい」といわれた場合、それはまた別の111で表される情報である。さらに、リンゴを食べた感想として「おいしい」だけが許されるわけではない。まずいリンゴもあれば、ほかの指標(赤い、高いなど)もありえる。このように青森のりんごの問いは110で表され、それに対する各々の答えは111で表されるのである。

立ち返って上に挙げた、俯瞰的な情報を見てみよう。

¥県(47)¥果実(非常に多い)¥主張(非常に多い)

というのは、この三つの階層それぞれに焦点をあてた問いを設定した場合にありえるすべての答えであり、これは無数の111の情報で構成されているのだ。これを指して、思想は情報の束である、と主張するのである。

この議論の意味として、大きな議論の枠組みの中に、二進数のシステムで表される単繊維(フィラメント)状のミクロ構造の存在が示されることである。

思想公理1ー静的状態

思想は単位情報の無矛盾な一つの系である。これは一つの情報に対して、思想を形成するほかの情報は矛盾しないというものである。例えば、青森でリンゴが名産だからといって、マグロが獲れなくなるわけではない。「青森ではマグロがおいしい」と「青森ではリンゴがおいしい」は両立する。これは、矛盾しないものだけが選られて束ねられる現象の陰なのである。

思想公理2ー諸状態

思想に問題があるとき、それは情報に0が混入しているときである。自己批判の足らない人の場合、常識の中に0が混入していたり、思考を深める過程で0が(気泡のように)混入しているのである。そのため、至らない思想には質問の余地がある。比喩的に3桁で情報を表してはいるが、実際の人間の思想は膨大な桁数を持っている。そのため殆どの人の思想には0が多かれ少なかれ含まれているし、完璧に稠密な思想を持つ必要性も実用レベルでは存在しない。

思想公理3-発展の経路

思想を構成する単位情報は我々の内部にあるもので、新しいものに接触し、それが我々内部の情報と乖離するときに思想は成熟する機会を得るのである。

これは例えるのが困難であるため2進数モデルを使うが、ある個人の思想(常識)が111であるとし、その系と矛盾する現象に出くわした時、それをその人間は100000と認識したとする。このとき彼の内部は100111の状態となり、101000、101001と一つずつ問いに答えてゆき、最後には111111に到達するのである。当然、彼の「常識」と化している下三桁の思考は熟練して結論だけを得ることもあるが、思考の伸びしろ・未知の領域に踏み出す時に熟慮することは避けられない。

つまり、100(111)、101(111)、110(111)、111(111)

である。

 

思想公理4ー発展の経路

思想は経験によってだけではなく、自己批判によっても桁を伸ばすことが可能である。例えばある人の思想がある程度1で密(1111とする)であったとすると、この人の考えには成長の余地がないことが明らかである。そこで、この桁を自己批判によって0000にしてしまうように心が働いた場合、上桁に繰り上がる圧が働き、10000となるのである。

補足

人の脳には貯蓄の限界がある。一度考えたことでも時間がたつと忘れてしまい、再発見しなければならなくなる。思想とは巨大な情報を含む遺伝子のようなものであり、現実ではその一部が表出しているにすぎない。しかし、再発見を繰り返すたびに発見の速度は上がり、忘却は遅くなる。それゆえ、一度に呼び出せる桁数は増え、互いに組み合わせて無矛盾かを評価することが可能になるのである。

本というものは動的な人間の思考を静的空間に落とし込んだものであり、その範囲内において思考のステップを飛ばすことが可能になる。公理3での括弧の中身が本によって補強されるのである。しかし、本の情報がすべて1で構成されるような無謬のものではない(人の業なので)。また本の内容にかなり習熟しなければこの効果は得られない。

思想公理5

人間の持ちうる最大の思想は「我思う、ゆえに我あり」である。これは「世界五分前仮説」などの高度な上位世界の問題に我々が答えを持ちえないことを示唆し、現実に批判的思考が可能な問題をすべて解き明かしたと仮定して到達する結論がこれであるという意味である。先の項では、思考がある程度1によって密でなければ批判的思考によって繰り上がる動きは為しえないといったが、それはあくまでシステマティックな行為によるものであって、真理に対する嗅覚がこれを可能にすることもまたありうる。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冷凍餃子が作れない

拝啓 あなたがこれを読んでいるとき、私は既に冷凍餃子が作れずに困っていることでしょう......

 

こんなくだらないことに仰々しい文体を使うなど、如何にもヘタレを主人公に据えるライトノベルの書き出しであろう。しかし注目してほしいのはその内容だ。左様、私は冷凍餃子が作れない。冷凍餃子など料理にも入らんようなものを「作れない」とは何事か?と皆は思うだろう。冷凍餃子など袋に書いてある作り方を忠実になぞれば、パスタを茹でるよりも簡単だ、と。

もちろんその通りに作ったことはある。なんなら手順を覚えてもいる。餃子を並べ、水を入れ、焼く。水が乾いたら油を入れ、さらに焼く。しかし、どうしても底に引っ付いてしまうのだ。それならばと水を入れる前に底面だけ焼いて粘りを抑えてみたこともある。しかし、それでもダメなのだ。

冷凍餃子は、作る途中で必ず4つの状態を経なければならない。冷凍状態、生の状態、熟した状態、そして焦げ目のついた状態である。私は焦げ目がつけば鍋底に付かないと思い込んでいたが、鍋底につくのは、生の状態の皮が水(水を入れなくとも、凍った餃子はそれ自体水分を含んでいる。)を吸ってブヨブヨになるからである。焦げ目の状態に到達するには必ず生の状態を経由するため、このやり方は無効なのである。

このコロナ禍で私の生活習慣は乱れに乱れている。昼食は、空腹を感じた際に取るようになってしまった。一説によると空腹状態では知能が上昇するらしい。しかし、「余裕」のようなものが料理には必要なのだろうか、とても空腹時に作った料理が良いものであった試しがない。

なべ底にくっついた餃子ほど、空腹時に人の神経を逆なでするものはない。表面はよい塩梅で蒸され、半透明につやつやしているのに、底面は凶悪に焦げ付き、無理にはがそうものならそれは餃子ではなく「ひき肉とdoughの炒め物」になってしまう。(ここ数日の私の昼飯はそれだ。)まぁ、私はそれでも味が変わらないなら......と木べらで無造作にはがしてしまうのだが。当然、空腹のイライラを乗せたそれは、「春雨に打たれる蔓薔薇の新芽の柔棘のごとき」餃子には重すぎる一撃だ。というより、餃子をはがすというのは建前で、空腹のストレスをなべ底に攻撃を加えることで発散しているといったほうが、或る種の人の目には正確に映るだろう。(以前は、菜箸を使って攻撃していたが、折れてしまった)なにせ、私が「ソレ」を行った後には餃子の具やら何やらまでがコンロ周辺に飛び散っているのだから。

そういえば、今日は茹で卵を作るのに失敗した。茹で時間が短すぎて、黄身が生であった。こういう状態の卵は私は絶対に食べないので、殻を半分むいてはいたが、再び水に放り込んで茹でた。卵は二つあって、一つは試金石的な意味合いで剥いたが、もう片方は剥いていなかった。当然剥かなかったほうも茹でたが、剥いたほうが茹で上がったからと茹でを中断したのがまずかった。茹でが足りなかったのだ。しかも、そのあとの私の行動はさらにまずいものであった。それを電子レンジに入れて加熱したのだ。

「電子レンジで卵を加熱してはいけない」というのは、有名な話だろう。粘性が高いものを加熱すると、発声した水蒸気が逃げられずに液中に閉じ込められ、爆発するのだ。特に卵なんぞ、加熱すればするほど粘性は下がるのだから入れてはいけない物の代表格だ。当然、今の私も、過去の私も、「卵を電子レンジに入れた私」もそのことは知っていた。単純にイライラしていたのだ。

当初、ゆで卵を作るときの計画は、二つ茹で、一つを早めに揚げて様子を見て、よかったら二つ目も揚げる、ダメだったら二つ目はそのまま茹でる、という計画だった。この計画の良い点は「最低でも一つの良いゆで卵が手に入る」というものだ。それが、どうだ。結果は最悪だ。途中でやり方を変更したばかりに、すべてが中途半端だ。

初志貫徹。皆さんも、状況に合わせて臨機応変に対応を変えているつもりでも、思わぬ泥沼に足を踏み入れている可能性を頭の片隅に持ち合わせていてくれたら、私は嬉しいし、犠牲になった餃子と卵も浮かばれるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天才を殺す凡人ーイノベーションについて

天才を殺す凡人

 ある日、新宿紀伊国屋の店頭に積まれていたこの本を手に取ってめくってみたとき、かつての自分の気づきー今はもう無意識の水面下に沈んでしまっていた過去の発見ーを再び見つけることができたような懐かしい気持ちになった。その中の項目のいくつかについて自分なりの意見を述べたいと思う。

「飽き」がイノベーションを産む

 この本の中で一番共感したのは、このフレーズであった。本の中では大まかに「天才は飽きが早く、それに気づいていないと失敗する」ということが言われており、100%ではないが私はこれは的を得ていると考えた。ここではこれを2つに分けて補強的に掘り下げていきたい。

1飽きるとは何か

 人間とは、環境に適応する生き物である。どんなに貴重な機会や材料でも、頻繁に扱うようになると飽きが生じてくる。すなわち、最初は全身全霊をかけて行っていたこともやがて注意力が散漫になり、しまいには片手間になっていく。これは脳のリソース配分率が徐々に下がっていくことを意味しているが、言い方を変えれば配分の最適化、または熟練の証であるともいえる。例えば、高価な宝石を扱う指輪職人が毎回緊張していたら心臓が持たないだろうし、そんな人に貴重な宝石を任せるのは心もとないだろう。

 凡人であれば何度も繰り返さなければ熟練にはならないが、天才はその分野において天才であるがために、早く適応してしまうのである。そのため、「天才は飽きが早い」のである。

2通りのイノベーション

 「天才を殺す凡人」では「悪い飽き」なるものが言及されていた。これについて思考を深めていきたい。

 作者の意図とは違うかもしれないが飽きは二通りあり、良い飽きは経験の蓄積からおこるもの、悪い飽きは物資の氾濫によっておこるものである。例えば書家においては、彼がある書体について極め、それ以上の表現を求めたときに試行錯誤するのが望ましい飽きである一方、大量の墨と紙に胡坐をかいて目前の一筆に適当に向かい合うのであれば、これが悪い飽きである。

 作中の上納アンナはクリエイターでありながら社長でもあるために、資本主義流の物資の氾濫に必然的に呑み込まれてしまうから腐ってゆくのだ。いずれにせよ(天才か凡人かを問わず)飽きて尚そこに留まり続けることはできないし、とどまり続けたところでよい未来はやってこないだろう。

イノベーションはどのように起こるか

 イノベーションは溜まった鬱憤が一息に吹き飛ばされるような、力の蓄積によって起こされるものである。もう少し詳しく言うと、「ある本業Aに対して熟練した際にBにリソースを流したところ、Bの熟練度が上がりAと同時にできるようになった」というのが正しい。

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 この図で説明するのは、あるAにかけるコストが一定値を下回ったときに別の主体が発生し、その主体の大きさも一定以上になるとイノベーションが起きるということである。当然、この二つは両立可能なものでなければならず、ピアノを弾きながらドラムを練習するよりかは歌を練習するほうが良いのではあるが、ドラムでイノベーションが起こせないと断言することはできない。

そのほか

 段落は変わったが、上の例を挙げてみよう。ドラムとピアノでイノベーションが起こせないと断言できないのには理由がある。チョコレートの例を見てほしい。

 チョコレートは昔、西洋の植民地から輸入されており、大変な高級品であった。その当時はコーヒーのように液状で飲まれており(どちらも焦げた豆なので当然だが)大変苦いものだったそうだ。いつしかそれが砂糖を加えてココアバターで固めたものになったり(第一段階)ガトーショコラやマカロンの味になったりし(第二段階)、今では顔パック(第三段階)や家畜の餌(第四段階)にまでチョコレートは使用されている。このように、一見関係ない間柄のものでも、是非はさておきリンクさせることは可能なのである。(ただし、板チョコはチョコレートケーキより後にできている。)

 

 先ほど熟練によるイノベーションと物質の氾濫によるイノベーションの2つがあると書いたが、熟練の過程では常に物質の氾濫があることを触れておかなくてはならない。例えば我々が数学を学ぶとき、その背景のロジックこそが数学の本質であることは重々承知であろうが、問題集を何度も解いて、その操作を身につけなければそれを用いた思索はできまい。頭の高さにあるようなものは時々上って景色を眺めるのにはよいが、足をかけて階段に使うことなどできないのである。

おわりに

 以上が、イノベーションに対する私の考え方だ。仮にあなたが「まだ何の社会経験もない青二才がなんだ」という感想を持ったとしてもそれはなんら間違いではない。しかし今の社会を観測するに、私の提示した「AならばB」に物言いをつける資格のある人なんて、少ないのではあるまいか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魅了する地名ー香港と表参道ー

 はじめに

  皆さんは香港についてどう思うだろうか。東洋の経済、政治、遊興の要であり火種でもある香港。わたしは最近になって中国語で香港について話す機会が増えてきたのに伴って、香港という地名の良さに心を奪われてしまった。

 いい理由その1 発音

1平坦で落ち着いた発生

 香港は中国語ではxiang gang (シャーン・ガァーン)と読み、連続する鼻母音が小気味よいリズムを作り出している。音韻には詳しくないのだが、香港の読みは1声と3声で構成されている。例えば北京もbei jing (ベェイ・ジィーン)と同じように構成されており、比較的平坦である。落ち着いた雰囲気が醸し出す特有のものがある。

雄大で格調高い発音

また、鼻母音が2つ存在しているのもいい効果を出している。鼻母音は(個人的な感想として)響きがほかの音よりも大きく、威圧的なテクスチュアを含んでいる。京(jing)や中・鍾(zhong)なども同じように口の奥で響かせるため雰囲気として壮大さが出ているが香港はそれが二つも入っているのである。これが発生する上で格好よさの源になっている。中国の地名ではほかに黒竜江(hei long jiang)が二つの鼻母音を含んでおり、やはり格好いい地名である。

いい理由その2 意味

1 香港の名前の由来

 香港の名前の由来は、その地が香木取引の中心であったことに起因する。香木は非常な高級品であった為そこが栄えていたというのは想像に難くない。しかし、そのセレブな雰囲気だけが香港の風格ではない。香というのは、我々が「長さ」といって「短さ」と言わず、「高さ」といって「低さ」と言わないように自明にポジティブな属性を持っている。これは完全に言葉遊びのように思われるだろうが、何回もその言葉を噛みしめるうちに無意識に滲み出る優が思考をポジティブな方向に補正するのだ。

2 香の背徳性

 香は贅沢品の中では不必要な部類のものである。いい香りのする煙草とも言い換えられるような(私は煙草のにおいは好きだが)少なくとも貴金属や宝石などとは違って身体に中毒や害をもたらすものである。これを好むものは仏僧かよほどの傾奇者であったろう。それらが一堂に会するカオスチックな場所は如何であっただろうか。最近のサイケデリックな芸術家たちに少なからず惹かれてしまう私は、香港という字面の退廃的で意識の深奥に沈んでしまいそうな、或いは鬱屈して何かが爆発してしまいそうな危険な雰囲気に本能を掻き立てられるのである。

3 シンプリシティ

 香港は、分解すると「香の港」である。この上なくシンプルでありながら伝えるべきところはすべて伝えた、というような余裕さを感じさせる。まさしく「簡にして要」を体現する美しい言葉である。

 

3 表参道

 知人で親類が判事をしているという者がいるが、彼の家の最寄駅は表参道だという。そこにある喫茶店が気になって一度原宿から歩いてみたのだが、素晴らしい場所であった。明治神宮の表門から伸びる通りは緩やかな坂になっており、次から次へと現れる数々の造形的意匠の施されたビルが目を楽しませる。新宿などのハコのような思考停止した建築を為す事業者にはぜひ見習ってもらいたいものだ。この表参道という言葉は、はじめ聞いたときは変な地名だと思ったのだが、いまではすっかり虜になってしまった。表参道についても、発声と意味の二つの観点から良さを分析していこうと思う。

いい理由その1 発音

1 鼻母音

表参道の「さん」の部分は、先の香港についても述べたように鼻母音になっており、発音に深みを与えている。日本語の鼻母音は中国語のものより曖昧であるため、よりたおやかで日本的な奥ゆかしさを表現できている。日本語の鼻母音は、「ん」が入っていれば基本的にそうである。例えば 半蔵門桜田門・九段下・日本橋・六本木・銀座・新宿などがある。この中で銀座と新宿は母音が i であり鼻母音の響きが弱いので個人的なイメージは微妙である。

2 破調

表参道はひらがなに直すと7文字であり、伸ばす音を数えずに読むと5音になる。実際問題、5音に縮められるのは俳句などにおいての作法であり日常の会話でこれをすると「おもてさど」になってしまうのでやはり7音、少なくとも6音である。一つの言葉で6音というのは我々が使う言葉のなかではかなり長い部類に入る。当然これを文中で用いようとすると話すリズムが崩れる。かといって「表」と「参道」に分けたらこれはこれで文の密度が低くなってしまう。ここに、「破調の美」が存在するのである。

いい理由その2 意味

1 表参道の意味

表参道とは明治神宮正面の鳥居から伸びる道のことを指す。ここでいう「表」とは先ほども述べた通りポジティブな意味を含んでおり、その効力は香港の香よりも強い。「香」はせいぜい少しいい香りがする程度だが、「表」はすなわち全肯定を表す。表参道について思索する度に、その聖属性によってその場は清められるのである。

2 参道の効果

表がより「justice」に近いことは確認したが、のちに続く「参道」という言葉も非常に効果的である。これは宗教に明るくないものにも信仰の存在を暗示し、その道にいる者にも心理的加護を与える。また、頭につく「表」の正しさにその来源を与えることによりさらに強化しており、願うたびに益々研ぎ澄まされたエクスタシーが脳内をひらめくのである。

3 シンプリシティ

表参道も香港と同じように構成された語である。「表」というポジティブなイメージと「参道」というその土地の果たす役割・用途をつなげた語で、変に飾らないところが評価を高めるポイントである。

さいごに

香港は明朝から、表参道は明治から始まったものであり、長い歴史がある。その土地に対する思い入れや、呼びやすさなどの数々のファクターに影響を受けたのちに現在のような地名に定着し、いまではどちらも一流の繁華街として人々の暮らしに結びついている。人々を無意識に引き寄せるような、今に通じる先人たちのかっこいい言葉選びのセンスに敬意を示し、ここで文を終わろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陶芸の備忘録1 土練り

目的

筆者はとある陶芸サークルに所属する大学生なのだが、コロナ禍(暇?)で大学が閉鎖されたため陶芸ができない。新入生も何人かはいるのだがまだ陶芸に関して何もできていない状況だ。そこで、腕が鈍っていくのは仕方ないとしてもせめてノウハウだけは忘れないように、ここに書き留めていく。今回は粘土成形を始める前の土練りに関してだ。

1土練りのやり方

陶芸で行う土練りは粗練りと菊練りの二種類がある。

1 粗練り

粗練りは土の塊を切り出した後に最初に行う練りである。これをすることで心なしか土が柔らかくなる。方法は以下のとおりである。画像は言葉で説明しきれないものも含んでいるので、すべては皆さんの画像を読みよる力にかかっている。

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粗練りの方法

2 菊練り(タニシ練り)

土がほぐれてきて練りやすい硬さになったら菊練りをしていく。菊練りは土の塊を紡錘形に作る練り方である。

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菊練りの方法

磁器の土は陶器の土より粒子が細かいので、陶器の土よりも3倍ほど細かく、多く練る必要がある。タニシの貝殻のようになるのでタニシ練りと呼ばれる。

これが練りとしては最後で、次からはろくろの上での話になる。

 

 

2土練りの目的

土練りの目的はいくつかある。その中でも練りによって大きな影響を受けるのは土中の気泡と水分、および粒子に関してだ。

1 土の性質に関して

土は乾燥・焼成の段階で形が戻ろうとする性質がある。完成までの各段階で、伸ばして作ったものは縮み、ねじって作ったものは逆向きのねじりが生じる。塊の状態の土をそのままろくろで挽くと予期せぬゆがみが生じて割れるため、土を練って変形を一方向にコントロールする必要がある。実際、菊練り後の土は粒子がバウムクーヘンのように並んでいるので、ろくろ加工を経ても均一に縮む。そのため、理論上ろくろを使用しない場合は菊練りは必要ではない。

2 気泡の排除と水分の均一化

土は放っておいていると水分の多いところと少ないところが出てくる。これはろくろをひくような繊細で均一な仕上がりが求められる作品作りでは致命的である。また気泡があると、仮に気泡をつぶしたとしてもそこにあるべき粘土が欠けているので均一に仕上がらない。また、水分が極端に少ない部分があると、薄くしたいときにそこが固い故変形せず、コブみたいになってよくない。そのため、菊練りで気泡を押し出し、水分量を平均化する必要があるのだ。

3おわりに

以上がろくろ成形をする前段階の準備、土練りの方法であった。これを読んで得るものがあったなら幸いだ。