天才を殺す凡人ーイノベーションについて

天才を殺す凡人

 ある日、新宿紀伊国屋の店頭に積まれていたこの本を手に取ってめくってみたとき、かつての自分の気づきー今はもう無意識の水面下に沈んでしまっていた過去の発見ーを再び見つけることができたような懐かしい気持ちになった。その中の項目のいくつかについて自分なりの意見を述べたいと思う。

「飽き」がイノベーションを産む

 この本の中で一番共感したのは、このフレーズであった。本の中では大まかに「天才は飽きが早く、それに気づいていないと失敗する」ということが言われており、100%ではないが私はこれは的を得ていると考えた。ここではこれを2つに分けて補強的に掘り下げていきたい。

1飽きるとは何か

 人間とは、環境に適応する生き物である。どんなに貴重な機会や材料でも、頻繁に扱うようになると飽きが生じてくる。すなわち、最初は全身全霊をかけて行っていたこともやがて注意力が散漫になり、しまいには片手間になっていく。これは脳のリソース配分率が徐々に下がっていくことを意味しているが、言い方を変えれば配分の最適化、または熟練の証であるともいえる。例えば、高価な宝石を扱う指輪職人が毎回緊張していたら心臓が持たないだろうし、そんな人に貴重な宝石を任せるのは心もとないだろう。

 凡人であれば何度も繰り返さなければ熟練にはならないが、天才はその分野において天才であるがために、早く適応してしまうのである。そのため、「天才は飽きが早い」のである。

2通りのイノベーション

 「天才を殺す凡人」では「悪い飽き」なるものが言及されていた。これについて思考を深めていきたい。

 作者の意図とは違うかもしれないが飽きは二通りあり、良い飽きは経験の蓄積からおこるもの、悪い飽きは物資の氾濫によっておこるものである。例えば書家においては、彼がある書体について極め、それ以上の表現を求めたときに試行錯誤するのが望ましい飽きである一方、大量の墨と紙に胡坐をかいて目前の一筆に適当に向かい合うのであれば、これが悪い飽きである。

 作中の上納アンナはクリエイターでありながら社長でもあるために、資本主義流の物資の氾濫に必然的に呑み込まれてしまうから腐ってゆくのだ。いずれにせよ(天才か凡人かを問わず)飽きて尚そこに留まり続けることはできないし、とどまり続けたところでよい未来はやってこないだろう。

イノベーションはどのように起こるか

 イノベーションは溜まった鬱憤が一息に吹き飛ばされるような、力の蓄積によって起こされるものである。もう少し詳しく言うと、「ある本業Aに対して熟練した際にBにリソースを流したところ、Bの熟練度が上がりAと同時にできるようになった」というのが正しい。

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 この図で説明するのは、あるAにかけるコストが一定値を下回ったときに別の主体が発生し、その主体の大きさも一定以上になるとイノベーションが起きるということである。当然、この二つは両立可能なものでなければならず、ピアノを弾きながらドラムを練習するよりかは歌を練習するほうが良いのではあるが、ドラムでイノベーションが起こせないと断言することはできない。

そのほか

 段落は変わったが、上の例を挙げてみよう。ドラムとピアノでイノベーションが起こせないと断言できないのには理由がある。チョコレートの例を見てほしい。

 チョコレートは昔、西洋の植民地から輸入されており、大変な高級品であった。その当時はコーヒーのように液状で飲まれており(どちらも焦げた豆なので当然だが)大変苦いものだったそうだ。いつしかそれが砂糖を加えてココアバターで固めたものになったり(第一段階)ガトーショコラやマカロンの味になったりし(第二段階)、今では顔パック(第三段階)や家畜の餌(第四段階)にまでチョコレートは使用されている。このように、一見関係ない間柄のものでも、是非はさておきリンクさせることは可能なのである。(ただし、板チョコはチョコレートケーキより後にできている。)

 

 先ほど熟練によるイノベーションと物質の氾濫によるイノベーションの2つがあると書いたが、熟練の過程では常に物質の氾濫があることを触れておかなくてはならない。例えば我々が数学を学ぶとき、その背景のロジックこそが数学の本質であることは重々承知であろうが、問題集を何度も解いて、その操作を身につけなければそれを用いた思索はできまい。頭の高さにあるようなものは時々上って景色を眺めるのにはよいが、足をかけて階段に使うことなどできないのである。

おわりに

 以上が、イノベーションに対する私の考え方だ。仮にあなたが「まだ何の社会経験もない青二才がなんだ」という感想を持ったとしてもそれはなんら間違いではない。しかし今の社会を観測するに、私の提示した「AならばB」に物言いをつける資格のある人なんて、少ないのではあるまいか。