冷凍餃子が作れない

拝啓 あなたがこれを読んでいるとき、私は既に冷凍餃子が作れずに困っていることでしょう......

 

こんなくだらないことに仰々しい文体を使うなど、如何にもヘタレを主人公に据えるライトノベルの書き出しであろう。しかし注目してほしいのはその内容だ。左様、私は冷凍餃子が作れない。冷凍餃子など料理にも入らんようなものを「作れない」とは何事か?と皆は思うだろう。冷凍餃子など袋に書いてある作り方を忠実になぞれば、パスタを茹でるよりも簡単だ、と。

もちろんその通りに作ったことはある。なんなら手順を覚えてもいる。餃子を並べ、水を入れ、焼く。水が乾いたら油を入れ、さらに焼く。しかし、どうしても底に引っ付いてしまうのだ。それならばと水を入れる前に底面だけ焼いて粘りを抑えてみたこともある。しかし、それでもダメなのだ。

冷凍餃子は、作る途中で必ず4つの状態を経なければならない。冷凍状態、生の状態、熟した状態、そして焦げ目のついた状態である。私は焦げ目がつけば鍋底に付かないと思い込んでいたが、鍋底につくのは、生の状態の皮が水(水を入れなくとも、凍った餃子はそれ自体水分を含んでいる。)を吸ってブヨブヨになるからである。焦げ目の状態に到達するには必ず生の状態を経由するため、このやり方は無効なのである。

このコロナ禍で私の生活習慣は乱れに乱れている。昼食は、空腹を感じた際に取るようになってしまった。一説によると空腹状態では知能が上昇するらしい。しかし、「余裕」のようなものが料理には必要なのだろうか、とても空腹時に作った料理が良いものであった試しがない。

なべ底にくっついた餃子ほど、空腹時に人の神経を逆なでするものはない。表面はよい塩梅で蒸され、半透明につやつやしているのに、底面は凶悪に焦げ付き、無理にはがそうものならそれは餃子ではなく「ひき肉とdoughの炒め物」になってしまう。(ここ数日の私の昼飯はそれだ。)まぁ、私はそれでも味が変わらないなら......と木べらで無造作にはがしてしまうのだが。当然、空腹のイライラを乗せたそれは、「春雨に打たれる蔓薔薇の新芽の柔棘のごとき」餃子には重すぎる一撃だ。というより、餃子をはがすというのは建前で、空腹のストレスをなべ底に攻撃を加えることで発散しているといったほうが、或る種の人の目には正確に映るだろう。(以前は、菜箸を使って攻撃していたが、折れてしまった)なにせ、私が「ソレ」を行った後には餃子の具やら何やらまでがコンロ周辺に飛び散っているのだから。

そういえば、今日は茹で卵を作るのに失敗した。茹で時間が短すぎて、黄身が生であった。こういう状態の卵は私は絶対に食べないので、殻を半分むいてはいたが、再び水に放り込んで茹でた。卵は二つあって、一つは試金石的な意味合いで剥いたが、もう片方は剥いていなかった。当然剥かなかったほうも茹でたが、剥いたほうが茹で上がったからと茹でを中断したのがまずかった。茹でが足りなかったのだ。しかも、そのあとの私の行動はさらにまずいものであった。それを電子レンジに入れて加熱したのだ。

「電子レンジで卵を加熱してはいけない」というのは、有名な話だろう。粘性が高いものを加熱すると、発声した水蒸気が逃げられずに液中に閉じ込められ、爆発するのだ。特に卵なんぞ、加熱すればするほど粘性は下がるのだから入れてはいけない物の代表格だ。当然、今の私も、過去の私も、「卵を電子レンジに入れた私」もそのことは知っていた。単純にイライラしていたのだ。

当初、ゆで卵を作るときの計画は、二つ茹で、一つを早めに揚げて様子を見て、よかったら二つ目も揚げる、ダメだったら二つ目はそのまま茹でる、という計画だった。この計画の良い点は「最低でも一つの良いゆで卵が手に入る」というものだ。それが、どうだ。結果は最悪だ。途中でやり方を変更したばかりに、すべてが中途半端だ。

初志貫徹。皆さんも、状況に合わせて臨機応変に対応を変えているつもりでも、思わぬ泥沼に足を踏み入れている可能性を頭の片隅に持ち合わせていてくれたら、私は嬉しいし、犠牲になった餃子と卵も浮かばれるであろう。