思考/思想とは

思想は深まらず、脳は老化する。

思想とは何か

思想とは、結局のところ我々の頭脳のアウトプットする一連の情報の束に他ならない。様々に階層を設けられた情報は、隣接する階層のそれと関係性を持たされる。これが真と偽の属性に分化され、各々の人間に分け与えられるだけの多様性を紡ぎだしている。

情報とは何か

思想が情報の束であるなら、情報は何であろうか。それは階層である。

例えば「青森県のリンゴはおいしい」という主張があったとする。

これは、(上位概念の全事象)¥青森¥リンゴ¥おいしい という3つの階層によって構成されている。樹形図を描くのであれば、

¥県(47)¥果実(非常に多い)¥主張(非常に多い)というようになる。しかし、それぞれが正しいかシミュレートするにはこの分岐は多すぎる。これは結論という山頂から下方に広がる大地を眺めているからであって、下にいる我々が目指す山頂がただ一つであることを考えれば、逆側のアプローチが必要である。

つまり、¥青森(正しい)¥リンゴ(正しい)¥おいしい(正しい)

という風に、あるものが正しいかそうでないかのみを判断する方法だ。ここで、真を1、偽を0とすれば、この主張は111と表せる。

総ての桁が1とはなんとも都合の良い例えであろう。今度は0を含んだ例を挙げる。

「青森でおいしいものは何か?」がそうである。

ここで言及されているものは3桁目の青森と1桁目のおいしいであるため、この問いは「101」と表される。そこでリンゴがおいしい、と答えたならば、それによって主張は111となり、一つの情報となるのだ。

つまり、0を含んだ情報は問であり、すべて1で構成される情報は主張であるのだ。

情報の束とは何か

ここで諸君は「青森の名産はリンゴだけではない」と思うだろう。例えば「マグロもおいしい」といわれた場合、それはまた別の111で表される情報である。さらに、リンゴを食べた感想として「おいしい」だけが許されるわけではない。まずいリンゴもあれば、ほかの指標(赤い、高いなど)もありえる。このように青森のりんごの問いは110で表され、それに対する各々の答えは111で表されるのである。

立ち返って上に挙げた、俯瞰的な情報を見てみよう。

¥県(47)¥果実(非常に多い)¥主張(非常に多い)

というのは、この三つの階層それぞれに焦点をあてた問いを設定した場合にありえるすべての答えであり、これは無数の111の情報で構成されているのだ。これを指して、思想は情報の束である、と主張するのである。

この議論の意味として、大きな議論の枠組みの中に、二進数のシステムで表される単繊維(フィラメント)状のミクロ構造の存在が示されることである。

思想公理1ー静的状態

思想は単位情報の無矛盾な一つの系である。これは一つの情報に対して、思想を形成するほかの情報は矛盾しないというものである。例えば、青森でリンゴが名産だからといって、マグロが獲れなくなるわけではない。「青森ではマグロがおいしい」と「青森ではリンゴがおいしい」は両立する。これは、矛盾しないものだけが選られて束ねられる現象の陰なのである。

思想公理2ー諸状態

思想に問題があるとき、それは情報に0が混入しているときである。自己批判の足らない人の場合、常識の中に0が混入していたり、思考を深める過程で0が(気泡のように)混入しているのである。そのため、至らない思想には質問の余地がある。比喩的に3桁で情報を表してはいるが、実際の人間の思想は膨大な桁数を持っている。そのため殆どの人の思想には0が多かれ少なかれ含まれているし、完璧に稠密な思想を持つ必要性も実用レベルでは存在しない。

思想公理3-発展の経路

思想を構成する単位情報は我々の内部にあるもので、新しいものに接触し、それが我々内部の情報と乖離するときに思想は成熟する機会を得るのである。

これは例えるのが困難であるため2進数モデルを使うが、ある個人の思想(常識)が111であるとし、その系と矛盾する現象に出くわした時、それをその人間は100000と認識したとする。このとき彼の内部は100111の状態となり、101000、101001と一つずつ問いに答えてゆき、最後には111111に到達するのである。当然、彼の「常識」と化している下三桁の思考は熟練して結論だけを得ることもあるが、思考の伸びしろ・未知の領域に踏み出す時に熟慮することは避けられない。

つまり、100(111)、101(111)、110(111)、111(111)

である。

 

思想公理4ー発展の経路

思想は経験によってだけではなく、自己批判によっても桁を伸ばすことが可能である。例えばある人の思想がある程度1で密(1111とする)であったとすると、この人の考えには成長の余地がないことが明らかである。そこで、この桁を自己批判によって0000にしてしまうように心が働いた場合、上桁に繰り上がる圧が働き、10000となるのである。

補足

人の脳には貯蓄の限界がある。一度考えたことでも時間がたつと忘れてしまい、再発見しなければならなくなる。思想とは巨大な情報を含む遺伝子のようなものであり、現実ではその一部が表出しているにすぎない。しかし、再発見を繰り返すたびに発見の速度は上がり、忘却は遅くなる。それゆえ、一度に呼び出せる桁数は増え、互いに組み合わせて無矛盾かを評価することが可能になるのである。

本というものは動的な人間の思考を静的空間に落とし込んだものであり、その範囲内において思考のステップを飛ばすことが可能になる。公理3での括弧の中身が本によって補強されるのである。しかし、本の情報がすべて1で構成されるような無謬のものではない(人の業なので)。また本の内容にかなり習熟しなければこの効果は得られない。

思想公理5

人間の持ちうる最大の思想は「我思う、ゆえに我あり」である。これは「世界五分前仮説」などの高度な上位世界の問題に我々が答えを持ちえないことを示唆し、現実に批判的思考が可能な問題をすべて解き明かしたと仮定して到達する結論がこれであるという意味である。先の項では、思考がある程度1によって密でなければ批判的思考によって繰り上がる動きは為しえないといったが、それはあくまでシステマティックな行為によるものであって、真理に対する嗅覚がこれを可能にすることもまたありうる。。